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【7限目】エッセイで読書の「幅」を見せてみよう(『天才はあきらめた』/山里亮太)


まえおき

図らずもタイトルが出来損ないの川柳みたいになってしまった。反省、反省。

これまでは、古典や小説を取り上げてきて、どちらかというと、おカタい感じを出してきたが、梶井基次郎がどうとか、ヘミングウェイがどうとかいうだけでは、賢さの一本槍になってしまい、通用しない人には通用しないとも考えられる。周りとの差をつけるためには、頑なな面だけでなく、柔軟な面、人としての「幅」を見せることも重要であろう。

ということで、今日はお笑い芸人である南海キャンディーズの山里亮太氏(山ちゃん)のエッセイ『天才はあきらめた』を取り上げていきたい。そして、本の内容に入る前に、そもそもエッセイでひとつ、周りと差をつけていきたい。

エッセイとは

そもそもエッセイとはどのようなものを指す言葉であろうか。ネットで検索してみたところ、エッセイとは以下のようなものをいうらしい。

自由な形式で意見・感想などを述べた散文。随筆。随想。

デジタル大辞泉より

なるほど、随筆のことをいうらしい。それでは随筆とは何かというと、以下のように出てくる。

自己の見聞・体験・感想などを、筆に任せて自由な形式で書いた文章。随想。

同上

これなら少しわかりやすくなったと思う。エッセイとは、小説のようなフィクションではなく、筆者自身が経験したことや考えたことを自由な形式で書いたものということらしい。

実は私自身、エッセイというものをこれまであまり読んだことがなかった。元々小説が好きだったというのが大きいが、赤の他人が現実に見聞きしたこと・感じたことを読んでもそれほど面白くないだろうくらいに思って、手を付けていなかった。しかし、実際に読んでみると、なかなか面白いことに気づく。小説と比較して、登場人物を介さない形で、筆者の独特の感性や言い回しを味わうことができるので、直接的な手触り感のようなものがあると思っている。

私は、エッセイに触れてこなかった理由を聞かれた際には、こう答えるようにしている。「筆者の考えに直接触れることが、その心の中を盗み見してしまっている気がして、内容に集中できないから」と。私は、小説の中でも、筆者の主張が満載にこもっているもの(最もわかりやすいのは、プロレタリア文学)が苦手で、それはまさに筆者のあけすけな主張と対峙することによって、内心ドキドキしてしまうからであるので、半分嘘ではないのだが、先ほどのように答えれば、何かもっともらしい考えがあって、あえて避けたきたんだというふうに受け取ってもらえる。私のように、エッセイにあまり触れてこなかった人も決して少なくないと思っているが、是非そういった方は、単に食わず嫌いや怠惰で避けていたことを、上手く逆転してもらえればよいのではないかと思っている。自らの弱点を契機として、周りを差をつけることも可能なのである。

天才は諦めた

先ほども書いたとおり、エッセイのいいところは、筆者の独自の感性や表現ぶりに直接触れられる点だと思っている。例えば、山里亮太氏の『天才は諦めた』においては、こんな面白い表現が出てくる。

スタートラインって立つのが本当に難しい。いつも立てたと思ったら新しいスタートラインが現れる

『天才は諦めた』(朝日文庫)42頁

これは、筆者の山里氏が、大学生時代にNSC(吉本興業の芸人養成所)に入ったところでの一言。不安だった面接を何とか突破した矢先、最初のクラスで、「コンビお見合」なるものの開催を提案する関西弁のクラスメートに声に圧倒されたところで出てきた。ヘミングウェイを引用するのもいいが、お笑い芸人の面白い視点や表現に与るのもよい。また、実際に筆者が経験して感じたことに由来する表現なので、(もちろん筆者特有の独特な経験に基づくものも含まれているかもしれないが)引用場面がイメージしやすいという利点もある今回引用した一節もまさに山里亮太氏が経験したような、次々新たな局面が訪れた際に再利用が可能なのである。

おわりに

今回はエッセイとは何かという部分が少し長く作品の中身には深く立ち入らなかったが、いかに人を楽しませるかという視点を常日頃から持っている、お笑い芸人のエッセイからの引用は、学を衒わずに披瀝しやすいという点で活用しやすいものである。せっかくエッセイについて考えたので、次回も引き続き何らかのエッセイを取り上げることとしたい。

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