たまには自分語りしたい日もある。③

お久しぶりです。

このシリーズ、書いているうちに着地点を悩んでしまって、手が止まっていましたが、ようやく先が見えました。その代わり、④で終了となります。

続きもんですので、良ければ以下を読んだうえで、お暇なときにお読みください。


決別後の変化

父と関係を断ち切った後、フリーターになり、ひたすらバイトで働く日々を2年間続けた。10万円も少し時間をかけて返し、一連の出来事に一区切りも付いた。

これはどの段階で思えた話かは覚えていないが、少なくとも今の私は、この時に大学に行けなくて良かった、と正直思っている。
当時大学に受かりはしたが、実は"補欠合格"であり、実は受験に際してとてもじゃないが、努力したとは毛頭言えなかったのである。
努力した先の話であれば、ショックも悲しみもより多くあったかもしれないが、結局のところ私個人としては、人生のその場しのぎのわがままが通らなかっただけである。

そこに向けた準備も気持ちも、何一つ持ち合わせていない中で、言葉は良くないかもしれないが、楽な選択肢を選べなかっただけであった。
そこは当時からも、何となくわかっていたし、流れ的にはショックであったが、仕方がないと受け入れていた。
だから、「父のせいで、大学に行けなかった」とは一度も思わなかった。
ただただ、そこに至った言動が"許せなかった"の言葉に集約する以外、言い表しようがないのである。

そしてこの頃は、若さも相まって「あの人のようになりたくない」という強烈な、父へのコンプレックスを持つようになった。

思い返すと中学生くらいの頃に、「反面教師」の言葉の意味を知り、それからの人生で今なお、良くも悪くも「反面教師」という言葉が思考に付いてくるようになった。
誰かが失敗した話を見聞きしたものから、映画や漫画、小説アニメ等で見た悪い描写も含めて、「こうなりたくない」ものを反面教師として積んで行く。
そうして数多積まれた「反面教師」の中でも"父に対するコンプレックス"という奴は、最大級の質量で解像度も高いものとなった。その為、自分の中にある父に似ている部分に強烈な拒否反応を示すようになっていった。

学生時代思い当たる反抗期が自分にも両親曰くも特になかった分、人がそこに使う全燃料を注いだ気がする程、文字通り"反抗"となって表れた。
そしてそれは見方によれば、今もなお継続している。

そのとても狭いながらも、大きな反抗運動を始めた当時、個人的に癪だったことが大きく挙げて2つあった。

まず、父から、21歳頃まで誕生日にメールが必ず来た事。
「お誕生日おめでとう。久しぶりに会いたいので、時間があるとき連絡を下さい。」
大体このような文面が、必ず毎年来ていた。
勿論会いたくはないし、割く時間があるわけもない。
何より人から明確な嫌悪感を示されて、明らかに何かがあった相手に誕生日に乗じて普通に連絡をしてくる神経がわからなかった。
この文面に、悪気を一つも感じないのも、悲しく思った。
「話がしたい」「何かしたか聞きたい」等何か言われれば考えたかもしれないが、どこまでも受け身な父に、もはや失望もしなかった。
話すことすら拒否しているのだから、考えが転じるわけもないのだが。

もう一つは、姉と分かり合えなかった事だった。
たまに「へそずっと曲げてないで、会ってあげぇや」的なことを、25歳くらいまでずっと言われ続けていた。
それに対して、きちんとなぜ連絡せねばならないのか?と、こちらの気持ちも添えて話したところ
「お父さんは、ああいう人なんやから、しゃあないやん。」
と諭された。

”仕方がない”とは何なのか。その簡素な表現が、余計に腹が立った。
なぜこちらが、何もなかったように許容して収めきゃいけないのか。
納得がいかず強い反抗をした為、話は平行線になった。この反抗は姉が言われなくなるまで姿勢を変えることもしなかった。知っている方は御存知かと思うが、私はこういうことに限っては、かなり意固地になって頑固でとてつもなく面倒な男である。

この頃の印象もあってか、30歳を超える頃まで姉からは「話したらキレる」と思われていた。
もしかするとそのころの印象から変わらず、今もそのままかもしれない。
今考えると姉は私と6歳離れている為、小学校高学年の頃まで父と住んでいたこともあり、父への思い入れもあった故、許容するに至る他なかったのかもしれない。
しかし、そう考えたとしても、理解は出来るが同調することはどうしても出来なかった。

そして、18歳以降、父から離れてみて、変わることもあった。

正直、高校に入った頃までは出来る限り"聞き分けの良い、やさしい子"であろうと思っていた。
別に求められたわけでもないし、決して教育されたわけでもない。
ただそうあるが良い事だと思いこんでいた。
父はもちろん、義父に対しても例外なく気を遣い我慢も続けていた自分に対して、美学すら持っていた。
母には、見透かされている気もしていたので、努力こそしなかったが、そうしていたところは大いにあったと思う。

手前にも書いたが、義父とは共に日々過ごしていたから、色々な衝突もあったし、互いに折り合いをつけたことも多くあったと思う。
これは"互いに"と言いきって良い。
義父は僕が気を遣ったり我慢することに悩んでいたと思うし、僕も義父が常に一歩下がった位置に自分を置いて話すことが嫌だった。
それを互いにきちんと話して修正を経て、気を遣うという点に置いて「互いの負担とならぬ程度」にすることが出来た。
それをかなり若い年齢で気付くきっかけを得た事は、自分の人生に置いてかなり大きい財産だと思ってる。

対照的に、それを父とはそういう関係性を積み上げることが出来なかった。
その結果、父に対してはその"いい子で居よう"というマインドは18まで続いていたように思う。
あの日に至るまで、爆発するまで、ただただあの人に我慢をして、期待をしようと努力していたのだった。

人との関係性は、例え親であったとしても、勝手に存在するものではなく、築き上げるものであると、良い例と悪い例を運よく経過できた。それが何より、皮肉の財産である。

25歳を超えた頃に、ふと母に言われたことがある。
「高校くらいの頃までは、君が純粋過ぎてこの先の人生大丈夫なんやろかって心配なったけど、何とかなったな。よかったわ。」
その"純粋"という言葉に含まれるものが、きっとそれだったのだ。
やはり、母にはずっと見透かされている。

ただ決して、純粋でなくなったわけでも、何かを悟ったと言えるわけではないが、「場合によって親とも決別が出来る」という事実は、人と付き合っていく中でのある種の大きめな枷を外してくれる事象となった、と言っても過言ではない。


自覚した日

年月はかなり経って25歳になった頃。
妹から「お父さん、入院するんやて。」と連絡があった。
元々足が悪かったらしいが、病院が嫌いでそれが祟って足を手術することになったそうだった。

この時「お父さん」という人が、10秒程思い出せなかった。
「え、お父さんって誰の事…?」と、頭に「???」が浮かんだ。
封印したとか仰々しい話ではないのだが、真面目に存在を忘れていたのだ。

そんな噓のような自分に、正直笑ってしまった。

そこに至るまでは、確かに前述以外にも色々な葛藤があった。
「自分にとって肉親だから」「家族だから」
一般的には当たり前の言葉が、自分の中で自己暗示としてぐるぐるしていた。
この思考を、意識的に完全遮断することは、意識をしているうちは叶わなかった。
だからこそ、思考の外にあったことを自覚したこの後に、喜びとは言えないが一種の解放感があった。

母が再婚するまでの間に「お父さんが居なくて、可哀想」と、よく言われた。
母に「何が可哀想なの?」と聞いて、「何も可哀想じゃないよ」と言われた事もずっと覚えている。

きっと父にそのことを話したって、それを言われた人間の心理なんて理解しなかっただろう。
「そんな奴が言う事は気にするな」と言われるだけの様な気がして、こういう話を話せなかった。その中身を話せる位、腹の内を見せ合えたらきっと違ったんだと、今は思う。

それから5年後、10年以上会う事もなく、父は死んだ。

直後とその対応

父は、12月25日の明朝、仕事中の車内で死んだ。

父が、父は離婚後一人で生きていた為、身元を受ける人間は我々実子しかおらず、連絡が届くまでも、少し時間を要したらしい。
25日の朝9時に姉から連絡を受けた。
自分で驚くほど、動じなかった。聞いた直後に、姉や妹の意思を尊重した上で動かなければと、姉の相談を受けた。
やれる範囲の事で即動くことはした。元公務員でケースワーカーをやっていた友人にすぐ相談し、手順を聞く等、可能な限り細かく質問して伝えた。
その時も器の小さい人間で申し訳ないが、「彼の為になる事」以外で動くべき事を選んで行動した。
勿論、顔も見に行かなかった。

正直、この時自分に兄弟が居なければ、全てを放棄したと思う。
姉と妹の気持ちを汲んで言えなかったが、「放っておけばいい」と、心の中で思うほど、「他人事」にしか思えなかった。
それくらい、連絡を受けた時、何の感情も湧かなかったのだ。
その事実が何よりショックだった。本当に何も思わず、姉が一頻り泣いた後に電話してきた様子を感じながら悲しくもない、自分が人間じゃないのではないか、とすら思った。

ただただ淡々と、自分の役割の最低限を進め、母と友人にこのある種の虚しさを少しだけ吐いて紛らわした。

結局他の2人の総意で、相続は放棄、葬儀は行わない方向にし、極力負担となる事は請け負わず、骨くらいは受け取るという形に落ち着いた。
姉と妹が、形式的な物を何も望まず負担がある事を何も選ばなかったのは、素直に驚いた。
勿論お金の問題もあるが、二人そろって「そこまでしてあげる程の事はない」と思っていたらしい。
姉との考えの相違から、どこか自分がふさぎ込んで、物事を肥大させて構え過ぎていたのかもと、このことに関しては少し反省した。

時間を置いて、父の実家の墓に受け取った骨を入れる話に落ち着き、納骨の参加も打診はあったが、悩んだ末に「故人の良い話をしなければいけない空間にいる事が、例え1~2時間であっても苦痛である」と伝えて、行かなかず、一連の事は終了した。

結局、最後まで全てを拒絶したまま、父との関係は終わってしまったのだった。

④に続く



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