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たまには自分語りをしたい日もある。②

はい、こちらは、2本目です。続き物なので、まず以下を読んだうえで、読み進めて頂けると幸いです。






決定的な出来事

この話は、前提と流れの説明がいる。非常に長くなる。申し訳ないが、踏まえてお付き合いいただきたい。

18歳を迎える高3の夏、私は急に「私立の大学に進学をしたい」と両親に申し出た。

元々我が家は、兄妹3人いる中で決して貧しくはなかったが、裕福ではなく、中学の頃から「進学したいなら、国公立一択」と事ある毎にいわれていたのにも関わらず。

その当時の私は、我が家にはお小遣い制度がなく、必要な時に相談をしてせがむことになっていたため、高校生になってすぐアルバイトを始めた。
高校生活はただひたすらバイトして、稼いだお金で遊びに繰り出していたため、もちろん学業で努力したことなど記憶にない。本当に進路に向けての事を「何もしていない」状態だった。
そんな高校生活が終わりに差し掛かる中で、急に不安が襲ったのである。何一つ目標も、将来に向けての保険も見つけていなかった。そりゃ当然不安になる。
そんな目標もない私は、年上の友人が通っていた大学に目を付けた。友人は奈良県の大学で建築系のデザインを専攻しており、話を聞いているうちに私はその学校に行き「建築デザインを学びたい」とか言い出したのだ。

自分の事だから言えるのだが、簡単に言うと「行く末が見えなさ過ぎて、なんか恰好がつく事をしたかった」という人間が、「デザイン」という言葉に恰好の良さに惹かれただけである。
なんなら、そこで出会った女性に恋もしていた。案外そんなものなのだとは思うが、もう恥ずかしいほど、原動力は浅はか極まりないものだった。

両親への打診は、勿論無理も承知の上で伝えることにした。歳が17にもなると、駄々をこねるつもりは毛頭なくダメで元々で伝えたが、返答は「難しい」というものだった。
理由としては、まずさんざっぱら伝えてきた話と違うし、何より急すぎてそのお金の準備も全くない。現実的に厳しいというものであった。
入学金は確か100万円。学費も年間それくらいだった。
今考えても、至極当然の返答である。
こちらも本当にダメ元で伝えたので、"ま、そうよね。。。"と思った。
そんなスタートダッシュも決められない返答ではあったが、その話の中で、母から一つの提案があった。

「入学金の工面だけでも、お父さんに頼んでみたらどうか?」

考えもしない提案だった。

前述の通り、義父の事は父とは言っていない。義父は誰からも、勿論母からも「お父さん」と呼ばれていない。ここに対する「お父さん」とは、お察しかと思うが、実の父のことである。
誤解をしないでほしいのは、この場面決して、たらいまわしにされたわけではない。母には、ひとつ考えがあったのだ。

実は、父は離婚の協議の際に決まった養育費を、支払いを開始して最初の3か月以降払ってなかったのである。
それを、母は私が中学を卒業した日まで追及もせず、追及した先もずっと、貰う事もないままだった。
20歳を超えた頃にその養育費の額面を聞いたが、協議の際に決まった金額は、子3人に対して月々本当にわずかな金額である。流石にはっきり書くことは生々しくなるので避けるが、額面は例えるなら"田舎で1ルームを借りれるかもしれない位の額"だとイメージしてもらえれば良い。少なくとも私の住む大阪では、郊外でもその額の倍あっても借りれないと思う。それくらい、少額である。

そんな額も払えない人に頼むのか?と思うかもしれないが、父は仕事は絶えずしていたし、車もバイクも所有して乗っていた。定期的に子3人を連れ出し、食事にも行った。共にUSJに行ったこともある。中学の頃には、テニスをしていた私に、ウィルソンのテニスウェアとラケットも買ってくれた。ちゃんとしたウェアとラケットなんて、結構な金額になる。

真偽はもうわからないが、きっと「払えなかった」ではなく「払わなかった」のだと思う。

そして、母は追及もしなかった。父は、そこにも甘えていたのだと。

追求しなかった理由に関しては流石に今も聞けていないが、少なくとも「好きだったから」とかそんな話ではない。そこを追求するやり取りすら煩わしくなる程度に、もう疲弊していたのだ、とそう思っている。

話を戻すが母は、「入学金の諸々約100万円だけでも用意してくれないか、聞いてみ。入った後は、何とか考える。」と言われた。
母からすれば、ここまでずっと払ってないのだから、それくらい払って格好つけろよという感じだったらしい。
まぁ、このまま立ち消えるよりはダメ元で当たる先があるならと、母の言う通り、父にそのまま相談を持ち掛けた。

返答は、「用意する。」との事だった。
確か即答ではなく一度持ち帰っての話だったが、用意できる算段が立ったから、と聞いた覚えがある。
正直、意外であった。父は、食べに行くなら必ずファミレスか、食べ放題の店で、「好きなもの食べさせてやってる」と言われたこともあるが、父が選んだ店にしか行ったことはなかった。
選択権がないというより、私より6っ離れた姉以外はわがままを伝える程の関係性がなかったのだ。
だから、父の都合で動く関係性だった為、父にそこまでお金があるようには思えなかった。

高3の夏。支払う予定まで、半年以上はあった。

そして、年を越えて、2月。

何とか、私は合格することが出来、そこでまず合格通知から1週間以内に、「入学申込金」約10万円の支払いがあった。これは急な話ではなく、元々わかっていた話であった為、その支払いを、合格の報告と共に父に連絡をした。
すると父は、おめでとうの後に言った言葉に、耳を疑った。
「まとまった金が入学金の支払い期日まで用意できないから、とりあえず払っておいてくれ。」
一瞬、固まった。しかし父に何も言わなかった。用意されていないではないか、とはいわなかった。

一先ず、致し方ない。
とりあえず1週間で10万を両親に相談したが、その入学申込金は、入学金を支払えなくとも返金は叶わない、という前提があった。
払えるかわからない先の為に、一先ず支払う余裕は、我が家にないと言われた。
当時の家の状況もなんとなくわかっていたので、こう言われることも致し方ないと思った。

そうなるともう、諦めるしかないのか。。と落胆していたところ、当時の状況を相談していた人が「結局行けなかったとしても、一先ずの期間の延命。」として、10万円を貸してくれた。
勿論一度は断ったが、相手の意志が固く、受け取ることとなった。それで一先ず支払わせてもらい、入学金支払いまでの猶予を得ることとなる。
この人がやってくれたことも、当時は後ろめたさすら感じて情けなく対応してしまったが、今でも自分は同じことが出来ただろうかと思うほど、その人を尊敬し、感謝している。

そして、1ヶ月が経過した入学金期日が近づく頃、父から連絡があった。
「5月まで、用意できなくなったから、お母さんに一回払ってもらってくれ。」
この時の連絡は、謝罪でも懇願でもなく、非常に軽いものだった。

実は、入学申込金が払えなかった時点で、うすうす"無理だろうな。"とは思っていた。母がその段階で払えない判断をしたのも、そこを見据えての事だった。
もうショックもなかった。信じようとはしたが、どれも叶わなかった。
まぁ、そう言われたし、母にはそのまま伝えた。"無理だと思うが、返ってくる前提で当たっては見る"との回答であったが、結果用意が叶わなかった。

結果、大学には行けなかった。行けたとしても、どこかで学費が払えなくなっていただろうし、致し方ない事である。
少し落ち込んだが、自分で学費を払うほどの覚悟もなかったから、受け入れざるおえない。

この時点では、呆れてより一層、幻滅した程度である。
「決定的な出来事」は、この後、訪れる。

大学に行けなくなり、まぁフリーターになるしかないか。という中で、まずは借りた10万円をどうにかせねばならなかった。
貸してくれた人は「返すのはいつでも良い」とは言ってくれたが、早く返せるに越したことはない。
父から行けなかったからと食事に誘われたので、その金だけでもどうにかならないか、確認した。

この時に父から言われたことは

「その10万円は、お前が借りた物。俺は補填しない。」
「5月頃には用意できたのに。仕方がない。」

ここまでは、まだ良い。次の言葉である。

「今回、お母さんがお前の為にお金を用意できなかったのは、お前が可愛くないから。」


この言葉を聞いてから、前後の記憶があまりない。
言われた言葉に怒りがとてつもなく沸き上がった事。そこからずっと黙った事。そこから顔を見れなかった事。
そういう断片しか覚えていない。
しゃぶしゃぶを食いに行ったのに、怒りで胃腸が痙攣したようになって、そこから何も喉を通らなかった。

当時は、怒る事に慣れてない事もあってか、何に怒ったのか自分で理解できなかった。
ただ、その日怒りに震えるという表現が正しい事は、身をもって知った。

エゴかもしれないが、自分が言ったことに責任を持てなかった事、信じて動いていたのに約束を守れなかった事を、一言だけでも、スタンスだけでも謝ってほしかっただけだった。
だが、謝るどころか自分は悪くないように振舞って、ここまで育ててくれた母をまた捕まえて、「お前の事が可愛くないから」とまでほざいた。
その事が、どうしても許せなかった。

長年ずっと我慢していたものがガスのように溜まっていたこともあり、その日大爆発したのだった。

帰りの車で、怒りで体が熱くなり、窓を開けた。
降りるときに何か言葉をかけられ、背中をたたかれた事に、余計腹がった。

家に帰った瞬間、部屋にこもった。母には何を言われたか、すぐには言えなかった。
その日から私は、父からの全ての連絡を無視をし、その日を境に父との関係を断ち切った。

自分の気持ちは何一つ伝えぬまま、人生で初めて、人との関係を自分から断ち切ったのである。


続く


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