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【人道支援チャド】紛争地の医療(2/5)~国境を越えた人たち~

割引あり

みなさん
人道支援家のTaichiroSatoです。

寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。
今回の「紛争地の医療」を全第5話としてシリーズ化することを決めました。そして、僕の投稿内容のイメージが湧くように僕のインスタグラムでこれから少しずつ写真や動画を可能な範囲でアップしていこうと思うので興味のある方はnoteと合わせて楽しんでもらえたら嬉しいです。

↓↓僕のインスタグラムはコチラ↓↓
Taichiro Sato(@taichirosato_ig)

さて前回に引き続き「紛争地の医療~国境を越えた人たち~」をお届けします。
まだ前回の投稿を読んでいない方は、まずはコチラを読んでもらえたらスムーズかと思います。

【人道支援チャド】紛争地の医療~僕らが国境へ向かう時~ (1/5話)

紛争地の医療~国境を越えた人たち~

「紛争地の医療」は全5話で投稿する予定です。
ーこの投稿は2023年4月から10月のチャドでのプロジェクトの記事ですー
(※登場する人物の名前は実際の名前から変えてあります)

スーダン紛争で家を追われ、負傷をした人たちをチャド側から支えるため緊急出動した僕たちチーム。
2日間の移動を終えて、現地対策本部へと到着した僕とマグロアとクロド。現地にあるシェアハウスは、ただスペースと少しの建物があるだけでほとんど空っぽの状態。チャドの暑さと初めて見たとてつもなく大きい難民キャンプの光景とで、僕は寝苦しい一夜を過ごした。

当時の僕の部屋 さすがにこの後マットレスは入れたw


翌朝、国境なき医師団(以後MSFという)の特設テント病院へと向かう僕とマグロア。
テント病院は本部からランクル(TOYOTAの4WDの車)で約10分のところにある。ランクルで10分といっても道なき道を走るため為、走行に時間がかかる。本部から病院まで距離にしたら1㎞くらいだろう。
MSFの特設テント病院があるその場所から、スーダンの国境へは車で数分で到着できるところにあり、まさに目と鼻の先であった。

もともと20床ほどのちいさな病院が建っていたこの場所には、小さな病院の建物が4つほどあり、こじんまりと地元行政によって管理されていた。僕らが病院に入った初日には既に、その小さな病院の建物の横にいくつかのテントが建てられ、人でごった返している状態だった。
なぜ僕らの入る前に既にテント病院が建てられていたのか。
実は、もともと近隣の別の病院で小児プロジェクトをしていたMSFチームがいた。そのチームは少し前に起こった多くのけが人発生とけが人たちのスーダン国境越えを受けて、急遽患者対応の初動にはいり、その病院の敷地内のスペースに緊急でいくつかテントを立ててくれていたのだ。

テント病院 No.1

また、地域の医療者をかき集めて少人数ではあったがチームが既に立ち上がっていた。
とりあえず、患者が入れる場所とそれを診る医療者を確保した、という状況だった。だが、あまりに患者が多すぎて明らかにすべてが足りていない。
ぼくはこの数日初動に当たっていた看護マネージャーのマルタと会い、そのまま直ぐに緊急会議をした。

マルタは僕を見つけるなり僕の方に駆け寄り、僕らは簡単な挨拶と力のこもった握手をした。まだ彼とは何も話していないが、後は頼んだぞ、そんなメッセージを彼の握手から感じた。

マルタと僕は、敷地内にあるコンクリートの建物のはみ出た部分に腰掛け、そこが日蔭であることを確認した後に話始めた。
マルタの表情はなんともいえぬ安心に満ちていたように僕には見えた。
彼は、この数日で数百人は優に超えるほどの大きすぎる患者の波を受け入れ、初動体制を作り、小児病院と外傷病院の二つを運営していた。どちらの病院も患者であふれ、医療者もスペースも医療物資もすべてが圧倒的に足りなかった。

「僕は今、どうしたらいいかわからないんだ。何が起こっているのかすらほとんど把握できない。タイがここへ到着して本当に良かった。」
マルタの声は少し震え、今にも泣きだしそうだった。


マルタは疲れたと思う。ただ彼の仕事はここで終わるわけではない。
彼へのねぎらいと激励を意を込めて、僕は言葉を選んで彼に伝えた。
「君は小児プロジェクトに集中していい。僕は外傷のプロだからこの外傷病院は僕がもらうよ。そのために僕はここに来たんだから。マルタ。ここまでよく頑張ったね、君はすごいよ」
あとから僕らの元に来た小児プロジェクトのチームリーダーに、僕とマルタの役割分担のことを伝え、マルタはもともとの持ち場である小児病院へと向かっていった。彼の小児病院も、このスーダン紛争での大きな影響を受けていて、MSFの小児病院も患者で溢れているとのことだ。

マルタとの申し送りを含めた会話は30分程で終わり、彼が車で小児病院へ向かうのを僕は見送った。
そして、僕は一つ大きく深呼吸をして今いる状況に目を向ける。

患者で溢れているテントが数個。一体何人患者がいるのか、どんな患者がいるのか、何人の医療者がここで働いているのか、全貌が全く見えない。
そんな僕の不安をよそに、僕の視界には次から次へと救急テントに患者が運ばれてくるのが見える。

さてと、やりますか。
そんな、独り言を言って僕は救急テントへ向かった。

国境の先にあるテント病院の存在
医療テントの張ってあるところを人混みをかき分けて歩く。
少なく見積もっても敷地内には300人以上いる。
テントの中だけでなく外まで人で溢れ、誰が患者、誰が家族なのかわからない。救急テントへは常にだれかが到着している状況で、医師看護師は限られた人数で24時間患者の対応をし続けている。

家族に担がれてくる人老婆、
ロバに載せられている初老男性、
ロバの荷車に乗った複数人の歩けない子供や大人たち。
時折車も到着した。
その誰もが憔悴しきっていて、命からがら僕らのテント病院に到着した人たちだった。

この日、僕が対応したある患者は、家族にとって父親の存在だった。
彼は数週間前に両足を撃たれ、骨が足から飛び出るほどの大けがを負って歩けなくなった。何とか家に逃げ隠れたが、外に出たら殺されるためずっと家族と息をひそめ隠れ続けたそうだ。そのうちに騒動が収まり、辺りから人が消えたのだそうだ。家を出た時の村の様子は言語化できないほど悲惨だったという。彼の家族は幸運だったとしか言いようがないのかもしれない。

家族は父親である彼をロバの荷台に乗せとにかくチャド国境へと走らせた。
やっとの思いで辿り着いたMSFのテント病院。
僕らが彼らを見た時には彼も家族も衰弱しきっていた。彼は大けがの状態で3週間以上家で生活をし、家族は息を殺しながら、彼の世話をした。
彼は歩けない状態で数週間も家で動けず尿糞を済ませて生活していたので、彼がテントに入る時、涙がじわっとでてくるほどの刺激性の強い酸とアンモニアの匂いが僕らの鼻をついた。
両脚は象のようにパンパンにはれ、膝関節がどこかわからない。感染症がかなり進行していて危険な状態であったためすぐに抗生剤の治療を開始したのだった。

スーダン国内で暴力が展開されている。
そこから逃げ、僕たちの病院にたどり着くことが出来た人たちは一体どれほど幸運なのだろうか。
被弾しその場で亡くなる人たちがいるだろう。
国境を超えることが出来ず、ここにたどり着くことが出来なかった人たちがいるだろう。
動かなくなった家族をおいてでも先へと進まなければいけない人たちがいたかもしれない。
そんなことを聞き、知り、僕は状況を想像してみる。

僕が病院で出会った患者も家族も。
その誰もが苦難の先にたどり着いた人たちだった。
「ここは安全な場所だよ。」
そんな言葉しか僕にはかける言葉が無かった。

傷の処置と残りの物資
止まることない患者たちの到着と彼らが負った骨にまで達するほどの深い銃傷。僕たちチームは日が昇ってから日付が変わるまで、患者を受け入れた。
どこから弾が入って、どこから弾が出たのか。
体幹に被弾しているのか、四肢に被弾しているのか、大きな血管の損傷はあるか。
繰り返し、繰り返し、、何人も何人も、、僕らは確認していく。
医療チームは患者を対応し、医療者以外のチームメンバーは1日でも早くインフラを整え、治療体制を今よりも質をあげるべく昼夜を問わず活動した。
僕らはとにかく必死だった。

毎日僕らは手分けをして傷の処置をする。
ここには数百人の銃創患者と10人ちょっとの看護師がいる。
それぞれの看護師が毎日数十人、傷の処置をした。
例えば、大きく銃によってえぐられた太ももの処置をするには、片足を持ち上げ自分の肩にのせ、肉がえぐれ骨の見えた太ももの傷が出血しないように丁寧に丁寧に洗う。創処置で一人に30分以上かかることも珍しくない。
テント内気温は40度を超える。傷を処置しながら、僕の顔から滴る汗が傷に垂れていかないように意識する。
乾いた地域で水分を摂取するために、
僕の顔にも患者の傷にも大量のハエが飛び交う。
そのため、家族がパタパタとカルテの紙を扇ぎながらハエを払いのけ続ける。これがテント病院での救急室での日常の光景となっていた。
傷を洗い、血が出たら止血をし、また傷を洗い、消毒をし、傷を閉じる。
汗だくになりながら、これを毎日繰り返す。

僕は看護師マネージャーなので本来はマネジメントをするのだが、医療人材確保が今日明日では不可能でこれだけたくさんの患者が到着している状況では、マネージャーだから、そんなことは言っていられなかった。
圧倒的な医療人材が不足。
救急テントでも入院テントでも、僕らは傷を診て処置を終え次の患者へ、次の患者へと急ぐ。今日傷の処置が必要な患者へと処置が行き届くためのプランを考えるが到底回り切れない為、優先度をつけて処置をしていく。
今日処置ができなければ明日以降に。明日無理なら明後日に。そうやって持ち越し、持ち越しになっている患者が何人もいるのが現状だった。
もちろん治療は傷の処置だけではない。
時間が足りない、とにかくみんなで手を動す。
1日という時間があっという間に過ぎていく。
灼熱テントの中、休むことなく動いてくれるスタッフたちには本当に感謝しかない。
 
この当時のチャドは19時頃に日が暮れた。
それでも患者は救急テントに次々と到着し続け、救急テントの患者の波が落ち着くのは21時過ぎだった。

22時頃。
僕らは近くにある家に帰り、食事を食べながら仲間とあーだこーだと話をする。家に帰っても僕の頭の中は仕事の自問自答でいっぱいだった。
テントに入りきらなくなった患者たちをどうするのか?
働き続けるスタッフたちをどうしていくか?解決策と方法と期間は?
このチームをどう回していくか?
どうやってチームを休ませるか?
継続的に医療を展開するためには?
薬は?在庫は?物流は?
2週間、4週間で起こりうることは?その対策は?
新しい病院の建設にどのくらい時間がかかるか?
そのレイアウトをどうするか?

常に頭がフル回転し、プランを立て、チームで話して進める。
この期間はたとえベッドの上でだって僕の頭のスイッチがオフになる瞬間なんてなくて、夜の22時に同僚に仕事を止められるか、午後23時にジェネレーターが止まり生活電気がきれるまで、僕は考え続け、手をパソコンへ、紙へ、と走らせる毎日だった。
全てをカバーすることなんて出来ない。
だが、今僕らにやれることは多い。
そして今できれば、救える命が多いことは間違いない。
止まるわけにはいかない。進め、進め。
自分の中の自分が、僕にもっと早く走れと追い立てる。
しかし、時間にも人にも物にも限りがあって、優先すべきことを決定していくしかない。
目の前の患者か。2週間後の死亡率か。人材確保か。物資の確保か。
チームが一番効率よく動き、多くの命を救える方法は?
今、僕にできること、すべきことは何か?
正解がない中で意思決定をする葛藤を時に仲間と共有しながら、
少しずつ前へ。
出来るだけ早く、出来るだけ遠くへ、と努力する。
 
患者を診ず、液晶を見る
僕がテント病院で活動を始めてから2日が経った。
なんとなく全体の様子がつかめてきた。

僕に出来ることはなにか。
僕にしかできないことは何か。
考えた結果、僕はチーム戦略とプランに自分自身の舵を切った。

僕には災害医療のプロとしての活動経験がある。
2週間後と4週間後、そして3か月後のここのリスクを徹底的に検討し、プランを立てることが出来る。
ここが行き当たりばったりの綱渡り運営にならないように、先手を打つ。
既に相当の厳しい状況であるが、医療が継続できなくなる致命的な状況にならないように、そしてより多くの命が継続して救われるようにするために。戦略を考え、そのプランを立てるのだ。

患者がテントから溢れている、
外が騒がしい、
わかっている。

それでも僕が今すべきことは、プランを立て、それを提示し、全体を動かすことだ。
これは今、僕にしかできない。
何度も自分に言い聞かせる。

この行動は来週、再来週のチーム状況を大きく変える。
信じろ。自分の描いた未来を信じろ。そう自分に呟く。

いろいろな形の勇気があると思うけど、
周りみんながしている今の為の行動ではなく、
自分は未来の為の行動をとること、
自分の描く未来に向かってそれを信じて進むこと、
僕はこれを勇気といっていいと思う。

唸る患者や叫ぶ家族の声が聞こえる中、
僕は病院の端っこでパソコンのキーボードを叩く。
プランニングに数日間集中することに決め、僕自身のアイデアを画面の中で形にし、慣れないフランス語のアルファベットへと変換していく。
患者の声が聞こえ、内蔵がキュッと締め付けられる。

これだけ多くの人達が被弾し傷を負った。創処置は追いついていない。
体幹を受傷した患者の手術を優先するため、四肢の手術適応の人ですら受けられていない。
2週間以内に感染症の重症化率が上がる。
人はどのくらい足りてないのか。
なんの薬がどのくらい必要か。
どのくらい受け取りまでに日数がかかるか。

良からぬ未来予想図のインパクトを最小化するために、
チームできるポイントを絞り出し策を打つ。
まずは人。そして物資。
準備万端なんてきっとここには存在しない。
でも、可能な限りの医療の質をあげるための「プランと調整」が命を救う。

直接患者に触れ、命を救うのは僕じゃない。
僕はチームの1つの歯車であって、
僕らの医療活動の先に、
誰かにとっての大切な命が失われなかった、
そんな結末が最後に訪れればいいのだから。

僕には僕の
この地で今なすべきことがある。


僕の活動5日目の朝。
昨日(僕の現地での活動4日目)、
僕の先を見越した一通りのチーム戦略とプランをメンバーと共有。
そのプランをもとに、人事チームや物資、ロジスティクスなど、医療メンバーも非医療メンバーもチーム全体として未来に向かって動き出した。
そして、いつものようにテント病院へ行く。
そのころの僕には、テント病院での毎朝のルーティンが出来つつあった。
それは。。。

次回へ続く。。


※投稿内容は全て個人の見解です。
最後まで記事を読んでいただきありがとうございます!
よろしければフォローも是非お願いします!!
また次回お会いしましょう。

Best,
Tai

✎2024年より✎
2024年1月1日 能登半島地震で被災された皆様、1日も早い安心安全な日常への復旧を願うとともに災害に関わる医療者として自分に出来る形でのサポートを模索していこうと思います。
亡くなられた方々へのご冥福をお祈り申し上げます。
被災地への僕なりの形として、国内外の災害に精通する医療者として、日本の民間企業の災害支援事業をアドバイザーとしてサポートすることになりました。一般社団法人Nurse-Men のメンバーを中心といた民間の災害対策本部を設置し、中長期的な被災地支援を実施していきます。
ご支援いただけますと幸いです。

尚、ぼくの投稿は全文公開にしていますが、有料記事設定しています。
頂いた金額は2024年1年間は能登復興支援に活用させていただきます。
よろしくお願いします☺

「🏝Naluプロジェクト🏝」
みんなで応援し合える場所づくりとしてメンバーシップを立ち上げ運営しています。2024年で2年が経ちました!興味がある方は一緒にメンバーシップを盛り上げてくれると嬉しいです。


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