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「もう、生きていられない」─苦悩と闇に身を投げる前に

かれこれ5年くらい、苦悩に溺れた人生と隣り合わせで生きている。ひとの苦悩ほど、美しいと思えるものにはまだ出会えない。だから、仕方なく、ただ僕は僕のためだけに、「苦悩に溺れた人生」の「お隣さん」をやり続けてきた。

奢られ屋として、4000人から直接はなしを聞いた。あるいは、YouTubeの配信で「お前の苦悩を語れ」という番組をやってきた。どこでも同じ。その人の苦悩を聞き、ぼくは、ただ笑うのだ。それも、心の底から。あまりに美しくて、それがおかしくて、笑えてしまうのだ。そして僕には、苦悩を笑う覚悟がある。そして、覚悟する才能があるのだ。

現代人は、危機に晒されている。獣を克服し、農業を発達させ、家を建て、戦争を終わらせ、医療は発達し、寿命も伸びて、子もほとんどが成人する時代に。それでも、現代人は大きな危機に晒されている。だれが、あなたの命を狙うのか?それは、あなたである。

わたしたちは、常に「もう、生きていられない」という危機に晒されている。殺されることはなくなった。寿命とガンが転移すること以外で、死んでしまうことも殆どなくなった。それでも、あなたは殺される。あなたは、あなたを殺すことができるから。そして、たくさんの人が──


我慢しよう。多くのひとはこう思うだろう。「我慢しなくちゃ」「みんなも我慢してるんだから」「わたしだけ、我慢しないわけには」...そうして、あなたは、あなたへの殺意を育てていく。我慢は、あなた自身への暴力だ。だれかが世界に放った暴力は、いつか反発して、その持ち主に帰っていく。あなたは、いつかあなたが放った暴力によって苦しむことになる。そのとき、なにか解決を模索するのではなく、ただ「我慢する」と身体が軽くなるのは、未来の自分に重荷を負わせたからだ。

苦悩に蝕まれてはいないだろうか?「もう、生きていられない」と思う瞬間はないだろうか?それが週に1度、いや月に1度でもあるなら、あなたは大きな危機に晒されていることになる。無職になっても、足が取れても、老後に2000万円なくてもどうにかなるし、それで死ぬことはまずない。でもあなたが、もしも「もう、生きていられない」と思う瞬間があるなら。その意志が、もしも、たった1回でも、行動にうつされたなら──

だから、「我慢すれば」と考えるのはよそう。あなたの苦悩は美しい。けれども、あなたからすれば、それほど憎らしいものはないのかもしれない。憎らしいものと生きていくのは、つらいだろう。できたら、美しいものと、余生を過ごしたいよなぁ。よくわかる。それは、よくわかるよ。

「もう、生きていられない」──それでも、まあいいと思う。我慢してまで、生きていかなくても。何もないなら、終わらせてしまっても。ただ、あなたが死んでしまう前に、つぎは僕の配信に、遊びに来ませんか苦悩が溢れたら。僕に笑われにきませんか。お前の苦悩を語りませんか。

苦悩はここに置いて、先にいきませんか。

次もまた、そこで会いませんか。


ひとは「10代の頃に渇望していたもの」がいつも待ち遠しい。それは手に入らなかったものかもしれないし、もっとやっていたかったことなのかもしれない。その再来が待ち遠しいから、だから生きているのだ。

#我慢に代わる私の選択肢

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