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【ウラ人生相談所】Vol.1「不幸な友達を幸せにしてあげたい」


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この「ウラ人生相談所」では、悩める市民たちが「オモテでは聞けないこと」を、見知らぬ浮浪者に相談している様を、文字起こしダイジェストでお送りする。

なんだかんだ月100人くらいは捌いている相談所である。今日も来客があるみたいだ。それでは。

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「不幸な友達がいて....
幸せにしてあげるには
一体どうしたらいいんでしょうか?」

彼はそう聞いてきた。意味がわからなかった。

幸せにしてあげる?


『不幸な友達?
それって、つまりどういうこと?』


「その友達は....
家庭環境に恵まれていなくて...」

「だから...
それ以外の部分だけは...
どうにか幸せになってほしくて...」

「どうしたら
幸せになってもらえますかね...?」

『それを辞めることです。』

「え...?どういう」ブチッ

(交信時間 約40秒)


不幸な友達は誰がつくった?


親でもない。家庭環境でもない。金銭の不足でもない。恵まれない才能でもないし、容姿でも、学力でも、IQでも、運動能力でもない。

不幸な友達がいるとすれば、その友達が不幸なのは「お前が友達を不幸にしているから」である。

自他問わず、「幸せとか不幸せとか」そんなものは自分で勝手に決めるものだ。自分が不幸かどうかは自分で決めるし、他人が不幸かどうかも自分が決めている。勝手に、決めているのだ。

友達が「不幸だ」と言っていても、それを判断するのは、また他人だ。僕はその友達の状況を「でも、足取れてないし、出生地ガチャは日本で大当たりだし、今日も死んでなくて幸福じゃねえの?」と思って生きる。幸福は主観だから。僕はそう感じる。

不幸な友達を幸せにする方法


「不幸な友達がいる」と思っている時点で、その認識自体が「その友達の不幸ポイントにボーナスを与えている」のだ。友達を不幸にしているのはお前。だから、幸せにしたいなら「不幸な友達」を辞めることだ

「不幸な友達」という前提を置いている時点で、お前には「その友達を幸せにするつもり」などない「不幸な友達がいる」んじゃない。「友達を不幸だと思いたいお前」がいるだけなのだ。

だから、「不幸な友達を幸せにしてあげたい」と思ったら、そのためにできる最善の策は「その場から立ち去ること」である。お前が不幸にしている。だから、そこからお前が去ればいい。シンプルなことなのだ。


さて、こんな感じであっさりと僕がふだん行っている「宇宙人との交信」を翻訳し、解釈し、そして、補足してみた。初回なので、テンポがまだ掴めない。とにかく、ふだん使わない言語、感覚器官、概念がそこにあると、すこぶる思考が捗っていい。宇宙人との交信は、これだからやめられないのだ。まだまだ続く、はず。

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ここからは「友達を不幸にしたがる人には、どんな動機があるのか?目的があるのか?」といったことを考察していきたいとおもう。


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健康と幸福の因果

相談者に釣られて「幸福」について語ってきたけれど、僕はこれを「健康」と言い換えていきたい。

健康とは、「幸福を感じるための基盤」であり、これを高めていくことで、鋭い五感を得たり、意欲的な活動時間を得たり、精神衛生の悪化による「バグ」を防ぐことができたりする。認知の歪みから逃れることもできる。

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(nakasone 2021)


直接的に「幸福を高める」のは難しいけれど、その基盤となる「健康」を高めることは容易で、わかりやすい。そして、何より効果的だ。

早く寝たり、精神的ストレスを与えるものから距離をとったり、バランスのいい食事をとったり、「他人を幸せにしてあげよう」を辞めたりすればいい。これが「健康を高める」ということだ。

さて、本題にもどる。

なぜ「不幸な友達」は生まれたのか?

人は「必要なもの」をつくる、と言う。

そこにあるものが「そこにある」のは、きっと「必要なもの」だったからだ。どこかのタイミングで、それが必要だった。そして、今も必要である可能性が高い。

「不幸な友達の存在」は、「彼を幸せにしてあげる自分の存在」を生み出してくれる。それが必要だったのかもしれない。つまり、不幸な友達を「自分が幸せになるために利用したい」人がいて、そのために彼らは「不幸な友達を生み出している」のだ。

これはとても不健康なことだと思う。それは「不幸な友達」のことではない。「不幸な友達の存在」を求めなくてはならない「彼ら」自身が、不健康だと思うのだ。


「してあげたい」は「させてほしい」


「してあげたい」というのは、「させてほしい」を都合よく言い換えただけのものだ。幸せにしてあげたいのではない。利他的な行動をすることによって、「利他的な行動をしている自分」を得たいのだ。

思うに、他人を「健康的で、幸福を感じやすい人生」に導けるのは、健康を自足している人だけだ。つまり、「健康にしてあげたい」「幸せにしてあげたい」と考える人には不可能である。健康な人間にしか、人を健康にすることはできない。

「自足していない」と、その行為は簡単に「健康の搾取」へと化ける。そこには「下心」があり、「ワンチャン狙ってること」はすぐに相手にも察知される。そして、その「相互補完」は失敗するのだ。

反面、「足りている人」は成功しやすい。そこには「下心」がないに等しく、そういう人間にだけ「不健康な人」はロックを解除するから。

「自分が幸福になりたいだけ」を認める

他人を健康に「してあげたい」と思うのは、不健康のシグナルである。決まって「してあげたい」と言う人は、「自分は不健康ではない」と勘違いしている。が、実際が不健康なのだ。

自らの健康を、他人に「してあげる」ことで満たそうとすることは、それ自体が不健康な行いだ。塩水を飲むようなもの。満たされたようで、飢えていく。それでは健康になれない。健康になるには、もっとフィジカルな問題と、精神生活を送る上での「構造的な問題」に着手しなくてはならないのだ。

確かに、健康な人が増えるのは素晴らしいことだ。けれども、「人を健康にする」のは、健康を余らせた人間だけである。健康が余っていない、不健康な人は「してあげる」からダメなのだ。「してあげる」と思っているうちはダメ。「してあげる」は、健康が余っていない証拠だ。それは「下心」を生み出す。そして拒絶され、不健康を増幅し合うことになる。

健康の順序

まずは、自分。次に、自分。もう一度、自分。そして、そこまで行ってから、群れである。健康は、まず自分だ。自分の健康。これを満たすことだ。

健康になる。また健康になる。さらに健康になる。ここまで行くと、「どれだけ健康になれるか」というゲームに移行する。ここが「群れの健康」に着手するタイミングだ。それ以前は、自分だけでいい。

間違えても「自分は健康である」と思い込んで、「誰かを健康にしてあげよう」なんて考えないことだ。それ自体が「不健康であること」を示している。

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(nakasone 2021)

「してあげたい」と思ったら、自分の健康を疑おう。そして、一旦そこから離れて、栄養のあるものを食べて、運動して、早く寝て、太陽がある時間に起きよう。決して「してあげるな」。

それは「暴力」へと変貌し、自分に跳ね返ってくる可能性が高い。そして、ただでさえ「してあげたい」ような不健康であるのに、その跳ね返りを受けてさらに「不健康」になっていってしまう。

この負の連鎖を避けること。そのためにも、「してあげる」をしないこと。「してあげたい」を不健康のシグナルにすること。そのシグナルを感じたら、すぐに「自分の健康」に集中すること。これが大切なことのように思う。

「不幸な友達を幸せにしたい」と思ったら、まずは「そんなことを考えてしまう自分の不健康を反省し」「健康を取り戻し」、そして、その健康が溢れ出した頃に「その友達が求めてきただけの、溢れた健康を分け与える」のだ。

心の底から誰かの健康を望むのなら、まずはそれを忘れること。そして、そのエネルギーを全て「自分が健康になるために使うこと」だ。食わしたければ、食え!



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