幕末で学ぶリーダー像〜島津斉彬と毛利敬親〜

「リーダー論」。巷ではそれについて書かれた本がいくつも存在する。しかしそれらは時として矛盾をはらんでいることも多い。「謙虚さ」と「図々しさ」。「行動力」と「思考力」。なんでもそうだ。ということはつまり、どんな人間でもリーダーたる素質を持ちうるということなのではないだろうか。そこで今回は、日本がアップデートしていく幕末の世にあって、対照的だった2人のリーダーについて述べてみよう。「雄藩」である薩摩藩と長州藩のリーダー、島津斉彬と毛利敬親だ。

島津斉彬

島津斉彬は薩摩藩第11代藩主を務めた人物である。大河ドラマ「西郷どん」にて渡辺謙が演じていたところが印象に残っている人も多いだろう。幼い頃から曽祖父の影響で、西洋文明に明るかった斉彬は、日本最初の近代的工場の敷設など、先進的な改革を行なったことで知られる。人材登用の面では西郷隆盛や大久保利通といった人材を発掘し育て上げた。特に西郷に与えた影響は凄まじく、西郷は一生、斉彬ならどうするか、斉彬になんと言われるだろうかを想像しながら、行動を起こし続けたとも言われている。
そんな斉彬は「積極的」リーダーの筆頭だろう。井伊直弼と争った「将軍継嗣問題」では一橋派として行動を起こし、篤姫の大奥斡旋、公武合体の提唱など、積極的な行動を起こし続け、西郷や大久保に影響を与えた。あと10年長生きできれば、日本のアップデートに直接的に関わることになっただろう。

毛利敬親

もう一つの雄藩、長州藩を率いた毛利敬親は、長州藩第13代藩主となった人物だ。斉彬と比較し、取り上げられることの少ない敬親だが、彼も幕末の世に不可欠だったリーダーだと思う。敬親は財政難だった長州藩において、人材育成に尽力し、高杉晋作や吉田松陰といった人材を育てた人物だ。
彼は斉彬と対極の「消極的」リーダーであったと思う。彼の俗称は「そうせい侯」。家臣の判断に意義を唱えず、「そうせい」と言い続けていたことがその名の由来だ。しかしながら重要段階では必ず自ら決断した。幕府が長州藩を攻めた第一次長州征討など、ここぞという場面では自分が責任を持って対処した。家臣を信頼し好きなようにさせるが、重要な場面では自分が矢面に立つ。そういった姿勢があったからこそ家臣はのびのび育ち、日本をひっくり返す人材が生まれたのだろう。彼の消極姿勢が日本を生まれ変わらせたのだ。

二人を比較して

自分が積極的に前に出て、背中で語ることで人材を育てた斉彬と、自分は必要な時以外後ろにいて、家臣に任せることで人材を育てた敬親。方法は違えど、あの時代にあってまさに必要とされたリーダーだった。彼らの存在が明治維新につながったことは言うまでもないだろう。

やはり理想のリーダー像なんてものはない。どんな人にも、リーダーになる素質があるのだ。この正反対な「理想の」リーダーを見ていると、そのように素直に思える。

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