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【法則】器用なクリエイターは、不器用なアーティストに勝てない

デジタル ネイティヴのクリエイターが、時代を飾っている。一方で「ブランド」になれるのは古風な、アナログ出身のアーティストだけだ。偶然ではない。このトピックでは、「一流の創作ルール」を、知ることができる。このまま技術を“買い続け”ても勝てないと気付いたアーティストの、ために書く。

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アーティスト情報局:太一監督
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日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、
監督がスタジオから発する生存の記
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『 デジタルとアナログとは 』

現在と歴史である。
“最新”や“高品質”とは好奇心を誘発するためのフックであり、本質としての価値にはなり得ない。すべてがデジタル化される現在において人々は、「普遍の価値」を基準に判断を下している。アップデートされ続けるデジタルに対して普遍の価値こそが、アナログである。アナログは変わることなく、デジタルの規範でありその威光は、存在し続ける。

そこで、日本に入っていないニュースをお知らせしておこう。

■ 最新国際ニュース:カンヌ国際映画祭ドキュメンタリー部門審査委員長が、ソーシャルメディアへの不安と正当性を語る

オスカーを受賞者でもあるカンヌ国際映画祭ドキュメンタリー部門の審査委員長 エズラ エデルマンが、SNSへの不安を語った。

「私たちの世界は現在、ソーシャルメディアに支配されています。常に自分自身を表現することが求められていますがそこには、空虚なメッセージや空虚なおしゃべりばかり。とても不安になります」

エデルマンはSNSのせいで、自分の活動が十分なのかどうかを疑問に想うことが多いと話している。

「自分の作品を通してできる限りの貢献をし、その意思を作品が語ってくれるようにしたいと考えています。しかし自分自身が、ある種のスポークスマンになったり自己宣伝しなければならない状況は、避けたい。SNSで自分の活動を宣伝する、なんて考えは気に入らないね。私はできるだけ舞台裏に潜っていて最後にだけ、自分の姿を見せたいのです」と語る。

「アーティストとしては何をしてもいいが、自分が“どの世界”にいるのかを意識してほしい」彼は“ローカルな視点”から、映画が世界に有益なものになるかどうかを振り返ることが重要だと述べた。「SNSにわたしは、映画にできるくらいの不安を抱えていますよ」
 - JULY 19, 2021 VARIETY -

『 ニュースのよみかた: 』

カンヌ国際映画祭ドキュメンタリー部門の委員長が、「SNSやばい。アーティストが自ら活動を報告したり宣伝するなんて気に入らない。自分のありかたを意識しろ」と語った、という記事。

まったく正しくて、残念な程度に古い。
アーティストの想いとして完全に正解であり、時代の求めとして完全に古いということだ。もしも、アーティストが生み出す作品が“観客のため”に創られているとしたなら委員長の発言は、間違えている。

観客は完成作品だけではなく、その過程に価値を見出している。秘密裏に準備した企画を大発表する映画界の「サプライズ習慣」は、ローカルかつアナログな“町での集客”に由来している。100年も前のマーケティング手法であり、現代に通用するはずもない。映画の上映時間が“2時間を基準”としているのと同等だ。上映時間の2時間基準は、“観客がトイレを我慢できる時間”であった。ストリーミング時代には、不必要。

現代流マーケティングは、
“サプライズ”よりも、映画誕生への道程を公開しながら、“興味”をテーマとした「コミュニティを形成する」ことが主軸だ。作品すら、主役ではない。

だが忘れてはいけない。カンヌのドキュメンタリー部門の委員長である彼の作品は、現代評価の頂点にある。「ブランド」なのだ。

『 万能なデジタルに、必須な機能 』

それは、「制約」である。

まだCGが“万能”を謳歌しはじめた頃に、映画「スパイダーマン(2002年)」が創られていた。その制作過程に作成されたストーリーボード(完成イメージ画)を観ていてわたしは、違和感を感じた。やがて、全CGで構成されたビル間を飛び交う赤青タイツ男の未完成動画を観ていて、理由に気付いた。

「スパイダーマンより、撮影している“カメラマン”のほうが凄くないか?」

周囲の関係者に伝えてみても誰もが、同じ反応を示した。
「CGだから、カメラマンの技術は関係ないだろう?」
“そこだ”、と確信した。

万能な技術には、「制約」が必須なのだ。
マジシャンがシルクハットからウサギを出すのは構わないが、アルファロメオのオープンカーを引っ張り出してはいけない。観客はマジックを忘れて、車種やマジシャンの腕力に気をひかれてしまう。目的が“分散”し、弱まってしまうのだ。

万能な現代クリエイターたちは、“器用”を売りにする多作生活を送ってはいけない。それは日々、自身の価値を下げているに等しい。不器用であれ。

『 ブランドという真価 』

歴史を崇める時代ではないまた、その活用域は極端に減り続けていると言える。だがどうだろう、「ブランドの価値」は普遍だ。世界が一時停止した19ヶ月間で、商品に添えられた“ロゴ”という安いブランドは一瞬にして消し飛んだ。まるで、信者の魔法が解けたかのように。だが、「人間ブランド」の価値は普遍だ。それは、アップデートされて変化し続ける“加速の現代”においてなお。

ブランドという真価とは、普遍の象徴である。では“普遍”とは。それは、あらゆる可能性を削ぎ落とした最後に残る“核”だ。国際的に成功しているアーティストを想い浮かべてみるといい。誰もが、“不器用なまでの幅の狭さ”を生きていることに気付く。「あれもできます、これもやってみましょう」などという器用なクリエイターはただの独りも、「ブランド」には慣れていないのだ。「そんなことはない!著名なクリエイターは沢山いる!!」という声には、気付かせてあげるといい。それは“有名なだけ”であり、価値ではない、と。

“宇宙に踏み出したビリオネア”たちがいる。リチャード ブランソンにはファンが爆発増殖し続けており、ジェフ ベゾスに批判が集中している。今なおスティーブ ジョブズ信者は多いが、ビル ゲイツにファンはいない。

一方は“不器用なアーティスト”であり、一方は“器用なクリエイター”なのだ。どちらかは美しいブランドでありどちらかは、ただのダサい初老だ。

器用なクリエイターは、不器用なアーティストに勝てない。

『 編集後記:』

CT、MRI、PETで、輪切りにされてきた。
不器用に生きたシンプルなアーティストを気取っていたわたしの身体には臓器が詰まっており、構造はどこまでも複雑でおそらく、絶妙なバランスの中にある。なんだかとても、恥ずかしい。

あの日、タモリさんもそう感じたはずだ。
少し古びた裏路地のビル、歴代総理もここで輪切りにされている。
人間がシンプルに生きるのは、不可能なのかもしれない。

複雑なプロセスを経てシンプル化するために、映画製作の現場へ帰るとしよう。では、また明日。

■ 太一(映画家):アーティスト業界情報局 × 日本未発表の国際映画業界情報 あるいは、 監督がスタジオから発する生存の記