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『荷物疎開』物の実感を支えとする精神

  『荷物疎開』は昭和二十年(一九四五年)四月に発表された。終戦のおよそ四ヶ月前である。戦時下のなかで、福田は、物と自分の精神との関係についてある発見をする。

 「昨年の夏からといふもの、落ち着いてものを読んだり書いたりする暇もなく、実にあわただしい月日をすごして来たものです。もとより書きたいことが無いわけではありませんでした。ただ自分の頭の中にある観念が具体的な形をとりはじめると、もうそれが周囲の現実になんら道を通じてゐないことに気づかざるをえなくなつたのです。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

戦争という異常な現実は、福田の頭の中にある観念が形象化していくための時間的有余を与えてはくれない。戦争の激化という逼迫した事態は、しだいに福田を焦燥へと向かわせていく。

「何かを、今にして何かをなさねばならぬ。しかも今までとはまつたく異なった仕方で ー そんなせつぱつまつた気もちから自分の生活を顧るとき、僕はいきほひ日常的なものの切り捨てに向はざるをえませんでした。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

東京への空襲は激しさを増す。こうして福田は、今日にも明日にも焼け落ちるかもしれぬ住居から、「日常的なものの切り捨て」を実行することに決める。しかしながら、本当の理由としては、長らく「物のうるささ」に鬱陶しさを感じていたためであると言う。

「だが、実をいへば、この数年間、僕にはさういつた「物のうるささ」がどうにも鬱陶しくてやりきれなくなつてをりました。さうした気もちがただ戦局の逼迫とともにますます強くなつたまでのことです。書物に限りません。物に執着しはじめたら、精神は完全にその対象にこづきまはされてしまひます。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

「僕は前々からこの事情を嗅ぎ知つて、精神の尊厳のため実は大いに物質を軽蔑し、かつは警戒しはじめてゐたのであります。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

物への執着は精神の自由を損いうる。とくに戦時下において、物は総じて煩わしい。そういう考えで、福田は身の回りの物を整理し始める。精神を守るために、物質を捨てるのである。

「ここに道具は焼いて惜しいからではなく、生活を煩雑にさせ鬱陶しくさせるものだから疎開する必要があるといふ結論が出てまゐります。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

そうして福田は、大切にしていた『漱石全集』と『鷗外全集』を疎開させるどころか、勢い余って売却する。そしてとある発見をすることになる。

「申すまでもなく僕の行為は軽率きはまる過失であつたといふほかはありません。書物は単なる物質ではないといふ平凡な真理の発見がここに来るのであります。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

福田は、『漱石全集』や『鷗外全集』を売り払った途端、図らずも、大変侘しい気持ちになった。いったいなぜだろうか。福田は言う。

「すなはち、それらは僕にとつて漱石その人であり、鷗外その人であつたわけです。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

「手つとり早くいへば、三流の精神にとつては、生きるためには「物」の支へがぜひとも必要だといふことであります。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

福田は、『漱石全集』と『鷗外全集』を売ってしまうことで、初めて、それらの書物が自分を支えていたことを知った。自分の精神を支えていたことを知った。

「物に対する愛着こそほんたうに建設的な僕たち日本人の心情ではありますまいか。何より警戒しなくてはならぬことは、異常に沸き立ち、異常を口実として、ささやかな日常心を否定する気負つたとげとげしい態度であります。」

『荷物疎開』福田恆存全集第一巻

戦時下のような異常事態は、「すべての価値判断を必要度をもつて割り切つて行かうとする傾向を生じかね」ない。つまり普通に考えれば、戦時下に『漱石全集』や『鷗外全集』は不要な物質なのである。だが、果たしてそれは本当であろうか。異常事態の中でこそ、物の実感が大切なのではないだろうか。

少なくとも福田は、愛着ある物を手放したことで、自分の精神が物の実感に支えられていることを深く感じとったのであろう。

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