D. H. ロレンス『黙示録論ー現代人は愛しうるか』①
D. H. ロレンスの『黙示録論』(原題:Apocalypse)は一九三〇年に出版された。それを福田恆存は昭和十六年(一九四一年)に訳し、太平洋戦争終結後に出版した。
この本が福田にとって、また福田の思想を学ぶうえで如何に重要な書物であるかは、下記の福田の一文を読めば足りるだろう。
無論、私にはこの本のまとまった解説などは到底できない。読んでいく中で印象に残った文章を軸としながら、この本を読み進めていくだけである。
早速、読んでいこう。
冒頭、ロレンスは読書や書物というもの一般について語ることから始める。
どのような理由であれ、何度も読みたくなる本だけが生きている本である。つまりロレンスにとって聖書中の一篇である「黙示録」(アポカリプス)はそのような書物であったいうわけだ。
第二章以降、話は具体的に「黙示録」(アポカリプス)の中身に移っていく。まずキリスト教には二つある、とロレンスは言う。
ロレンスがアポカリプスの作者と考える者の名は、パトモスのヨハネであり、彼の宗教こそがキリスト教の内に潜むもう一方の宗教である。
それは「第二流の精神の所産である」。すなわちキリスト教の内に忍び込んだ「人間のうちにある不滅の権力意志」である。
隣人への無償の愛を説くキリストは、あまりにも高尚であり偉大であり、それゆえに他の誰も後に続くことができなかったのではあるまいか。このような疑念は、歴史上、キリスト教にまつわる思想家たちにとって最大のテーマのひとつであった。たとえば、『カラマーゾフの兄弟』においてもこの問いかけは全編を貫く中心的なテーマのひとつであった。
ロレンスは言う。
仏教、キリスト宗教などの宗教は、自我を去った他者への奉仕を説く。だが、それを実行できるものは所謂、精神の貴族だけである、すでにして富んでいる者だけである。
では貧しきものである我々大多数の凡人は、すなわち大多数の「第二流の精神」である我々は、一体どうすればよいのか。誰に仕えればよいのか。
それに応えるのが、パトモスのヨハネの黙示録(アポカリプス)だということだ。人間は何ものにも奉仕せずには生きられない。換言すれば、アポカリプスとは人間の本性に根差した欲求についての黙示である。
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