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シンガーソングライターは実話を歌うべきなのか ※約5分


あなたはシンガーソングライターのAさんのファンです。

あるときAさんがこんなストーリーの歌を作ったとします。

真夏に不意打ちの失恋した。
その人と見に行くはずだった花火大会を見に行った。
一緒に着ていこうと約束して買った浴衣を着て一人。
あのとき自分が問われて答えた言葉が違っていたら、一緒にここに来ていたかもしれない。
そんな「もしも」の世界の二人も、この打ち上がる花火の中、人混みを歩いている。
今にもどこかで、幸せだったはずの二人とすれ違いそうで。
大輪の花火が胸に響く。湧き上がる歓声が耳に響く。

…的な。
そして、あなたはこう感じたとします。

「ああ、なんて悲しい失恋を経験したんだろう」
と。

はい、ここです。
このシンガーソングライターAさんは、本当にこの夏の失恋を経験していなければならないのでしょうか。

つまり、詞と曲を自ら作る歌手は、実体験を歌わなければならないのでしょうか。

必ずしもそうである必要はないはずですが、なぜかそう思われがちではないですか?

激しい場合だと「書かれた詞と私生活があまりにも違いすぎる」と謎のバッシングを受けたりもします。

私生活で法を犯すなどは論外ですが、そうでない場合、詞がフィクションだと、はたしてどういう問題があるのでしょう。

たとえば、一途な片思いの歌を書く歌手が、たくさんの恋を経験していたとわかったとき。
「モテモテじゃん」「裏切られた」と言う意見が出ます。

これは、誰の何に対する裏切りなのでしょう。

この疑問の答えを考えるため、幾つか例示してみましょう。

1. 海賊の漫画を書く作者は海賊であるべきか
2. ミステリー作家は卓越した推理力があるはずか
3. 日本の名所を数々の俳句で残した俳人は引きこもりではいけないのか

以下、私の私見を記してみます。

1. ノーです。海賊は物語の中だからカッコイイのであって、実際は反社会勢力です。
2. 個人的には「そんなことはないだろうが、そうあってほしい」とは思います。名探偵に憧れつつ、それを生み出す作者にも憧れながら読んでいるからでしょう。
3. これは、皆さんと大きく意見が分かれるかもしれません。「引きこもりでも良い」と思います。実際の名所に足を運んでいなかったとしても、たとえ想像で詠んだとしても、それが名句であれば名句です。

さて、少し見えてきました。

人は…というか、私は、作品を鑑賞するとき作品だけでなく「作品から想像しうる作者」をも同時に鑑賞している。
そして「こうあってほしい」あるいは「こうあってほしくない」あるいは「どちらでもよい」と、これらのいずれかを意識下でぼんやりと思っている。

以前「小説は読んだ人が小説として成立させるもの」という趣旨の文章を書きましたが、その延長上の言い方をするとすれば「小説から作者を想像するのはとても自然なこと。ただしこれもまたインクの染み」となります。

少し前で提起した「誰の何に対する裏切りなのか」という疑問の答えは、「誰も何も裏切ってはいない」です。
あえて言うとすれば「裏切られた」と感じている人がそこにいる、というくらいでしょうか。

Aさんが書いた「花火慕情(仮)」という歌があったとして、Aさんがその数年後のインタビューで「人混みって苦手で、花火大会に行ったことないんですよ」と答えたとします。

そのとき、Aさんのファンには「裏切られた」とか「嘘つき」とか、思われてしまうと、ちょっと切ないのです。

「あ、花火慕情(仮)を通して、Aさんのイメージ像まで膨らましていたな~。こうあってほしいって無意識に思ってたんだな」
仮に「残念感」を感じるとしても、このくらいまででとどめたい。

我々は、作品を受け取って、感じる権利があります。
その権利は、時には想像上の作者にまで及ぶかもしれません。
しかし、生身の作者は、受け手の思い込みに自身を犯される義務を背負ってはいないのです。たぶん。

せっかく想像の世界で楽しめる私たちなのですから、作者と受け手が、いつも「いい感じ」に過ごせる関係性でいたいものだと、常々思っています。

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