「教養」を身につけるということ #20
欧米の一流大学では徹底的に「教養」を学ぶとのこと。日本ではあまり「教養」を身につけることの重要性は強調されていない気がします。
日本では「教養」というと、何となく「物知り」や「クイズ王」のイメージがありますが、本来の「教養」とは、「その人物を形作っている軸」のことをいうそう。
フランスの政治家エドゥアール・エリオは、「教養や哲学」を「それはすべてを忘れたときに残るものであり、すべてを習った後にでも、なお足りないもの」だと言いました。
また、「現代社会では、しっかり自分の頭で考えられない人間は、『コモディティ(替えのきく人材)』として買い叩かれてしまう」と述べた「武器シリーズ」の瀧本哲史さんも自分の頭で考えることの重要性を指摘して、そのためには「教養」が必要だと述べています。
とても示唆に富む話なので、少し瀧本さんの言葉を引用したいと思います。
かつてアリストテレスは「奴隷とは何か?」という問いに、「ものを言う道具」と答えました。僕がいまの世の中を見ても、けっこうな数の「ものを言う道具」の人がいます。一応ものは言って人間のかたちはしてるんですけど、自分の頭で考えてない人があまりに多いので、そういう人を人間にしなきゃいけないという問題意識というか、使命感もあります。
「教養はなんのために必要か」ということについて、ブルームによれば、「教養の役割とは、他の見方・考え方があり得ることを示すことである」と。これは、けっこう超重要な定義でして、僕も同意見です。
一見いますぐ役に立ちそうにないこと、目の前のテーマとは無関係に見えることが、じつは物事を考えるときの「参照の枠組み」として、非常に重要なんですよ。
経済学しか学ばない人、学べないような人は、実際あまり役に立たないんです。見方が一方的だったり狭すぎて、学問の新しい理論やジャンルを開拓していくことなんて、できないんですよ。これは仕事でもおんなじです。
学問や学びというのは、答えを知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。
ただ、自分で考えるためにはやっぱり、考える枠組みが必要なんです。その枠組みが「教養」であり、「リベラルアーツ」であるということです。
薀蓄や知識をひけらかすために「教養」があるのではありません。自分自身の拠りどころとするためにも、真に「学ぶ」必要があるんですよ。
知識や経験に対して、どう感じ、どう思考していくか。それにはその人の「教養」が問われることになります。
一方、変化の激しい現代においては、企業の成長にイノベーションが欠かせないと言われています。
イノベーションには「知の探索」※が欠かせませんが、これには「教養」も含まれるのではないかと思っています。
※「知の探索」とは、認知限界を越えて、自分から離れた「遠くの知」を探索することであり、それを既存の知と組み合わせることで、イノベーションが起こると言われている。
まとめると、「教養」とは、『自分を取り巻く様々な事柄について、自分の価値観に基づいて、誰かの受け売りでない自分の考えを、自分の言葉で主張し、コミュニケーションするために必要なのもの』であり、そこには自分自身をどのような人間だと認識しているかという根源的な問いかけも含まれていると思います。
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