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してきな。

 目が覚めた。視界はぼやけ、全てが曖昧だった。眼鏡を探すが、どこにも見当たらない。知らない場所にいる。それだけは確かだった。

 真っ白な天井とベッド、木の棚、洗面器、そして窓。冷たい空気が肌を撫でる。ここは病室だ。そう思ったが、それ以上のことは分からない。

 棚の上には紙が一枚。顔を近づけて読もうとする。そこに書かれた早口言葉のような病名に思わず笑いそうになったが、それが笑えないほど現実的なものだと、触れる感触が教えてくれる。

 私は眼鏡であり、眼鏡は私だ。それがなければ輪郭を失い、世界は混沌に沈む。現実と非現実の境界は薄く、膜を通して互いに浸透し合う。ぼやけた視界が、私を曖昧にし、私と他人の境界を溶かしていく。鏡に映る顔も、自分のものではないように見えた。

 何日が過ぎたか分からない。ある日、家族が面会に来た。ガラス越しに立つ影。顔は見えない。けれど、私には誰なのか分かる。
「何かいるものはあるか?」
母が尋ねた。私は答えた。「眼鏡。」
その言葉が空気に溶けていくとき、ガラスの向こうの影が一瞬だけ揺れた。

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