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『天気の子』とゆっくり死ぬことについて 安倍晋三銃撃事件ノート②

ぼくは映画をあまり観ないのだけれど、『天気の子』はたまたま父と観に行った。二人で映画館で観た、最後の映画だった。

『天気の子』は、貧乏な男女が出会い、お互いなんか可哀想すぎるので世界を崩壊させて、自分達だけ幸せになろうという話だ。

ポイントは、このうら若き男女がほんとうに可哀想なのである。男は女に奢ってもらったマックのハンバーガーで「こんな旨いものは食べたことがない」とか言って感動してるし、女は極狭アパートにガラクタが溢れていて、両親は死んでひとりで弟の面倒を見ている。

この映画の終わりで、二人は世界を救うことよりも自分たちが生き残ることを選ぶ。二人のせいで世界は異常気象、大雨に沈む。男はなぜか拳銃を持っていて、警察に逮捕されるが、数年後に出所する。観客はこの貧乏で不幸な2人に同情しているので、生き残った彼らが再会してハッピーエンドを迎える。

もちろん、天気の子と山上さん(安倍さんを銃撃した山上徹也容疑者)が同じだと言いたいわけではない。天気の子と山上さんの違いは、アニメと現実というだけではない。

まず、山上さんはおじさんである。さらに、高齢の母が陳腐な宗教にハマったときている。ドラマとしては出来が悪いが、世の中の「観客」は問題なく同情しているように思える。なぜか。

端的にいうと、山上さんの状況は、いまの日本を象徴的に表しているからだろう。経済成長は20年も30年も停まり、親や祖父母の世代が蓄えた富は使い果たされていく。子どもや日本に絶望した親は新興宗教にハマっていくし、子どもたちはそんな家庭に苦悶する。そんな「子どもたち」も、すでに40代を過ぎている。

いまの日本で苦しんでいるのは、貧困の中にも愛と未来がある若い男女ではなく、貧困の中に愛も未来もない、中年の男女なのかもしれない。

そんな理由で、世の中が山上さんの味方につくのは、僕にはある意味で当たり前のように感じられる。日本が貧乏になったことについて、安倍さんが責められるのも当たり前のように感じられる。




安倍晋三さんが銃撃されて亡くなって、3日後に父親が死んだ。銃撃、ではなく肺がんだった。

僕は安倍さんの国葬に賛成だ。それは、安倍さんが総理大臣として「生前にいい仕事をしたか」ということと、国葬は関係がないと信じているから。国葬に賛成する理由は二つある。

一つ目は、安倍さんは日本のリーダーとして、長く仕事をしてきたからだ。もし彼がクーデターで総理大臣になったのであれば、もちろん国葬には反対する。しかし、日本の総理大臣は、民主主義の選挙を通じて、日本国民から選ばれたリーダーとして認識されているはずだ。

総理大臣という重圧の中で、8年以上も仕事をしたことは、「いい仕事をしたか」という政治的評価とは別に、尊敬に値すると思う。なぜなら、仕事の内実的な評価というのは、絶対的な基準はないからである。

「拉致問題や国家的課題の解決に取り組み、外交面では日本の国際的地位を高めた」から国葬をするべきだとか、「格差と貧困を拡大させる政策で日本国民を苦しめた」から国葬はやめるべきだとか、そういう議論は意味がないように思える。人間なんだから成功もあれば失敗もある。だからこそ苦労もするし、重圧も感じる。その中で、長く仕事を続けたことに意味がある。

二つ目は、「祈り」の問題だ。すでに国民に広く共有されているように、安倍さんはいきなり背後から撃たれて、訳がわからないままに死んでしまった。人生の最期として、こんなに悲しい終わり方はない。

何が起きたのか分からないまま、自分の人生の意味を振り返ってみたり、愛する人に最後の言葉を伝えたりできずに、突然死んでしまうことの悲しみ。その途方もない悲しみに胸を痛めて、遺族に寄り添い、共に祈りたいと僕は思う。

僕は父が死ぬ瞬間まで、最期の一週間を、自宅で一緒に過ごすことができた。父はゆっくりと死んでいった。たくさんの人の支えがあった。そのような死は大切だと思った。

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