「コンテスト」という魔物


コンテストは残酷だ。

選ばれる人がいるということは、当然ながら選ばれない人もいる。しかも、選ばれない人の方が圧倒的に多い。応募総数に対して受賞数はほんの一握り。応募者のほとんどが審査結果で希望が打ち砕かれるシステムになっている。

にも関わらず、多くの応募者が結果発表までの間、「私受賞しちゃったらどうしよう・・・・・・」と心配したり、「俺いける気がするねん」などと期待に胸をふくらませて待っていたりする。

ひどい人なんて、受賞した後の華やかなステージに立つ自分を妄想して一人でニヤニヤしている(それ、昔の俺やないか)。人間の脳は、受賞確率がたった1%であっても「落選するか or しないか」の半々くらいの確率だと錯覚しがちだ(それも、俺やないか)。

応募者のほとんどは、落選を目の当たりにして、箸にも棒にもかからない自分に失望することになる(・・・・・・俺や)。この記事タイトルの「コンテスト」という言葉に反応したあなたも心当たりがあるかもしれない。そう、コンテストは残酷な魔物なのだ。えっ、言い過ぎ?


魔物に挑み続けた日々


少し自分の話を。

選ばれない悔しさ。ライバルが選ばれる焦燥感。かすりもしない絶望感。それらを自分はよく知っている。二十代から三十代前半にかけて、私は広告系のコンテスト(キャッチコピーやラジオコマーシャルや新聞広告賞などの公募)に参加していた。打席に立った回数も、空振りした回数も、数えきれない。

鼻息を荒くしていたあの頃。落選するたびに、自分の力のなさを見せつけられ、失望し、途方にくれた。未来が曇って見えた。

恥ずかしながら「審査員は見る目がない」などと反骨心を燃えたぎらせた日もあったし、斜に構えて他人の受賞作品を素直に祝福できない日もあったし、誰かの作品のあまりにもの出来の良さにただただ感服しかできない日もあった。それはつまりそれくらい真剣だったってことでもあるんだけど。

根拠のない自信は、結果の出ない日々の中で少しずつ萎んでいく。落選するたびに次の打席に向かう身体がだんだん重くなってくる。それでも次の打席に向かう他なかった。

その頃の自分には、次の一歩への足がかりになる手段が、誰もが平等に参加できる公募のコンテストしかなかった。受賞歴はもちろん、コネも、相談できる師匠との縁も、うまい世渡りの知恵もなかった。

独りよがりなクリエイティビティも、受賞という客観性を持てば独りよがりではなくなる。そう思っていた。何も持っていない自分に確かな手応えがほしかった。褒めてほしかった。まあつまりは、承認欲求の塊みたいなヤツだったのだ。

しつこく打席に立ち続ける中で、コピーや広告の賞はいくつかもらった。あの頃は焦りと悔しさに突き動かされていた気がする。


「悔しさ」「焦り」とどう向き合うか


全身全霊で挑んだコンテストで落ちる感覚。それは、受験で志望校に落ちることに少し似ている。就職・転職活動でお祈りされることに少し似ている。そして恋に破れることに少し似ている。(全部、俺が経験あるやつやないか)

今、打席に立ち続けた日々はムダではなかったと思っている。悔しさ。焦り。絶望感。その全てが間違いなく血肉になる。なかなか結果が出ないのは苦しい。でも、何もしていない人より、負け続けている人の方が確実に成長している。自分の場合はそう言い聞かせて応募し続けた。

コンテストという名のバッターボックスで泥臭くバットを降り続けても、最初の頃は、魔物たちが投げるその速球や変化球にかすりもしない。空振りを何度もしているうちに手にマメができてバットを置きたくなる。それでもバットを振り続ければ、たまに球をとらえられることがある。

天才ではない人間の戦い方のポイントは、「バットを振り回し続けても、結果に振り回されない」ことだ(うまいこと言った)。選外であっても切り替える。消化しきれない感情をエネルギーに変換して何度でも新しい打席に立つ。落選のたびに落ち込んでいたら体がもたない。

全スキル、全知識、全経験、全体重、全ナントカをかけて応募したとしても簡単に落とされるのがコンテスト。選ぶ側の好みとかその時のフィーリングなどさまざまな要素に左右される部分もある。負けたのではなく合わなかった。そう思えばいい。

次の打席に立ってバットを構えれば、過去の打席なんて忘れているだろう。同時にたくさんの打席に向かっていけば、悔しがっている時間ですらもったいないと思うかもしれない。

そのようにして、理想の自分と落選した自分との間でなんとか折り合いをつけながら、「コンテスト」という残酷な魔物とうまく付き合っていくしかない。

だから悔しさや焦りから生まれる負の感情で、尊い情熱を腐らせる(魔物に食われる)のはもったいない。


魔物とは自分自身である


実際のところ、魔物とはコンテストではなく自分自身のことだ。

多くのコンテスト応募者が、「才能がない」と自分を卑屈にする魔物、「どうせ選ばれない」と自分を弱気にする魔物、「自分の良さは誰にもわからない」と自分を殻に閉じ込める魔物、「あんなのが選ばれるのはおかしい」と自分を攻撃的にする魔物に出会う。

つまり、自分でつくりあげた魔物たちと戦っているのだ。真剣であればあるほど魔物たちによく出会う。

もし魔物と戦うのに疲れたのなら、少しの間休んでまた再開すればいい。


「諦めない人が強い」と思いたい


当然だけど、みんな「選ばれた側」に入りたい。

グランプリに選ばれたい。佳作でもいいから選ばれたい。就活で採用されたい。スポーツチームのレギュラーに選ばれたい。いい企業から引き抜かれたい。誰かからいい仕事を指名で任されたい。片思いの相手から恋人として選ばれたい。数ある中から自分の記事を読んでほしい。

世間で活躍している人の多くが、選ばれ続けた人だ。でも、諦めなかった人(泥くさい凡才)もまた活躍していたりする。


もちろん賞が全てではない。自分を成長させるための手段は他にもある。でも、賞は良い訓練になるし、良かれ悪かれちゃんと結果も出るのでわかりやすい。

クリエイティブの世界では、「受賞」「著作」「名のある会社・集団」「名のある師匠」といったわかりやすいバックグラウンドの存在を匂わすだけで、まわりの態度が面白いくらいころっと変わることがある。

同時に、本人も、周囲の態度の変化に飲み込まれて態度が変わっていって寂しくなったりする。これは前にも言ったのだけど、芥川賞を受賞しても態度が変わらない謙虚な又吉直樹さんはかっこいい。後輩のグランジ五明さんは「後輩に優しい先輩であることは売れてからも変わらない」と証言している。

話がそれてしまった。

賞は手段であって目的ではない。当然だけど、その賞を受賞することによってその先どうなりたいかが重要だ。賞に頼らなくてもその目的に到達できる実力者や器用(世渡り上手)な人だっているだろう。

不器用な雑草タイプの人は、地道にやるしかない。

ぶっちゃけ、これは根性論であり数打ちゃ当たる論だ。とにかく何度も打席に立つこと、複数のコンテストに同時挑戦すること、落選のたびにちょっとした敗因分析することが大事だと思う。


諦めない人は強い。
そう思いたい。そう思わなきゃやってられない。


自分のこのメッセージが、
公募のコンテストを頑張っている
人へのエールになりますように。


この記事、ちょっと暑苦しい内容なのでなかなか公開に踏み切れず、下書きで三ヶ月くらい放置していました。遠い日々を回想するような語り口調でしたが、自分もまた何かの打席に立ちたいと思っています。


#エッセイ #コンテスト

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