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読み手を疲れさせないこと #わたしの執筆スタンス



読み手が疲れない文章。

それが、noteで何かを書くときの私の軸であり、目指したい理想型だ。エッセイでも小説でもそう。基本的に文章を読むのは体力を使う行為なので、なるべく読み手に体力を使わせたくないのだ。

だから、できる限り、難しい言葉を使わないようにしている。平易な言葉を意識し、読んでいる瞬間は読んでいることを忘れさせるような文章に仕上げたい。

読んでいる途中で、「この言葉どういう意味だったっけ? 」「この言葉知らない」が出てくると、文章が遮断され、読み手のリズムが狂わされる。辞書を引くなりして再びその文章に戻ってきた時には「あれ、どこまで読んだっけ? 」となる。それが何度も重なるとしんどい。

元日本マイクロソフト社長の成毛眞さんはこう言っている。

たとえば、文章中に“アウフーベン”が出てきたら、それは、賢いと思ってもらいたがっている人物が書いた文章だと思った方がいい。その文章の目的は、何かを伝え、理解してもらうことではなく、書いた人間を賢いと思ってもらうことだと即座に判断できる。


そしてこう続けている。

アウフーベンは例えである。ほかにも、平易な言葉に置き換えればいいのに、わざわざ目くらましのような言葉を使う文章には要注意だし、そういった文章を書くことはまったくすすめられない。使う言葉は一般的であればあるほどいい。


一番の最後の「使う言葉は一般的であればあるほどいい」の箇所に、すごく共感した。

特にnoteにおいては、一般的ではない言葉をちりばめてむやみに読み手を疲れさせたくない。自分の文章を読んでくれる人の時間をやわらかく包みたい。

私が尊敬している書き手の方々はみんなそうだ。文章の長さを感じさせないし、読んでいて苦にならないし、それどころかパワーがもらえる。

平たい言葉で文章を書いたからといって、書き手の個性は失われない。みんなが知っている共通の言葉で書いても個性を出せる文章が「うまい文章」なんじゃないだろうか。比喩や描写がキラリと光る文章は、わざわざ難解な言葉やカタカナを使わなくても成立する。

平易な文章を書くことは、読み手を大切にすることだと思う。

コピーライターである私はそう学んできた。読み手を信じていないわけでもないし、読み手のレベルを低く見積もっているわけでもない。「そんな言葉も知らないのか」と読み手を置き去りにする文章だけは書きたくない。読み手を疲れさせることが避けられないのだとしても心地よい疲労を残したい。

もちろん、語彙力も、文章に求めることも、一人ひとり違うはずだから一概には言えない。文章そのものの種類やジャンルも多岐にわたるから、「文章」という大きな括りで語るには無理があるのはわかっている。ビジネス雑誌とかだと、難しいカタカナが当たり前のように出てくるけれど、ちゃんと読者がいる。

読み手としての自分を考えたら、ネットと本では文章への向き合い方が明らかに違う。ネットから離れて静かに本のページをめくるときは「読もう」という意志が強い気がする。多少難解な言葉や表現があっても気にならず、むしろ「味わおう」というスタンスになる。それに対して、ネット上の文章はもっと軽い感じなのだ。


今回、だいすーけさんの「わたしの執筆スタンス」という企画に参加させていただいた。そのハッシュタグが示す通り、この記事の内容は、あくまで私個人のスタンスである。

まだまだ拙いけれども、自由に書ける舞台では、読み手にやさしい文章を心がけたいと思っている。


#わたしの執筆スタンス #エッセイ


読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。