見出し画像

バイクで解くイビツな世界

ロックンロールやってるくせにバイクがカッコいいと思わない。
アメリカンとかはちょっと好きだったりするが、まあバイクの中では好きかな、という程度だ。

なぜ自分はバイクにあまり興味を示さないのだろう、と考えるのだ。
変な言い方だがバイクが好きな友人はカッコいいと思うし、好きなアーティストにもバイクが好きなひとが多い。

つまりは金額や見た目、そして重量が用途を満たしていないと思ってしまうのだ。
だいたい100〜200kgくらいあるのだろうか?
車で何kgあるのだろう?
そりゃ相当に重いとは思うが車に関しては用途を満たしているように思う。
雨風が凌げて、複数人が乗れる。
バイクは多くて2人。それも不安定な格好でまたがり、後ろの者は運転手の体に掴まるといった塩梅で会話も難しい(インカムつけたりすれば別だが)。
雨も風も直射日光も浴びれば危険も多い。
スピードは車同様に出るとしても、車の方が便利だと思ってしまうのだ。
金額も例えば安い中古車とならそんなに変わらないような。
いやいやバイクだって安い中古があるぜ、と言われるかも知れない。
けどおそらくバイクにまたがるひとと言うのは「安いから」を理由にしてないと思うのだ。
たとえば出勤のためなら安くて便利なスクーターがある。私の中で、これなら用途を満たしているのだ。
いわゆるバイクに乗るという行為には『憧れ』があるのだと思う。
そう、自分にこれがないのが悔しいわけだ。
車なら少しわかる。
ただ、少しだ。
エアコンのないカッコいい旧車か、快適な最新カーなら、私は後者(いや後車か)を選ぶと思うのだ。もちろん複数台所有できるのであれば話は別だが。
つまり乗り物というものに便利さを求めてしまうのだ。
家もそうだ。
カッコいいと思う建造物は確かにあるが、便利なものを求めるのだ。
道具は便利な方がいいという考え。
いや、便利なものが『美しい』と思う節がある。
もっと身近なところで言えばカバンにそれを思う。
ポケットが付いていたり、本来とは別の場所にジッパーが施されて、そこから簡単に中のものが取り出せるようにしてある工夫。そういった便利さを求められたカタチにこそカッコよさを感じる。
それをはじめて見つけたのが軍用の鞄だった。
素早く簡単に取り出せて、軽く丈夫な素材。
さらには防水加工もしてある。
車、バイク、鞄、建物。
これらは私の中で『道具』というカテゴリーなのだろう。
これについては坂口安吾氏が【日本文化私観】という小説の中で同じようなことを言っている。

同じ観点から言えば、ギターなど楽器もそう考えるべきだ。
べきだがそうは思わない。
エレキギターであれば、もっと軽くて小さくて、同じ音がするものだって今の技術であれば出来そうだけど、やはりカッコいい方がイイ。便利さは求めることもあるが、例え壊れやすくてもヴィンテージを求める場合がある。
まあ私の場合概ね音が主体であり、求める音はカタチであったり古い個体という結果なのだが。

フライングVと呼ばれるギターがある。



これは座って弾くにはたいそう弾きにくい。
出っ張りを足に挟んで弾いたりするようだが、それは応急処置というか、仕方なくそうしているのであって、そのためにそのカタチなのではない。

つまりカッコ良さだけを追求したカタチなのだ(もちろんこのカタチをカッコいいと思うかどうかは人それぞれの感性である)。

このギターを弾くには『立って』ストラップで身体に吊るのが正しいカタチだ。
立って弾くことを想定して作られたカタチなのだ。
つまり、ステージの上のカタチなのだ。
それに気づいた時私は震えた。

今は所有していないが、若い頃は一本持っていた。
所有していたものは安物で音が気に入らなかったからステージで弾いたのは数回だが、私はその潔さに惚れたのだ。

もちろんバイクを蔑み、ギターを持ち上げようという意図はない。
バイクのことをギターのように思えない私自身に若干の悔しさもあるほどだ。

比べるべきは「バイクかギターか」ではなく、
「公道かステージか」なのかも知れない。
私にとってはギターも道具に近い捉え方をしているが、つまり「ステージの道具」なのだ。
ステージとはひとに見せるための場所。
道具であるギターも魅せるべきカタチであるべきなのだ。
このステージという世界がすでにイビツなのである。

なるほど。
バイクがステージの上を走るものであれば私は素直にバイクをカッコいいと感じたのかも知れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?