わからないことをわからないと認めるのもまた「科学」
1.わからないことをわからせるだけが「科学」ではない
科学的思考とか、科学的根拠という言葉にはなんかこう、安心感がありますよね。
何かしっかりとした土台の元に、確かな情報を与えてくれているような気がします。
実際、科学が進歩してきたことで今までにはわからなかったしくみがわかるようになり、
私達の生活は便利となってさらに今までにはなかった新しいものをさらに生み出し続けているように思えます。
しかし、今のウイルス騒動を見ていると、「科学の暴走」とでも言えるような状況だと私には思えてしまうのです。
科学が発達しなければ見えなかったであろう概念に怯え、
今もなお私達の心と身体をむしばみ続けているような状態です。
それであれば科学は一体何のために発達してきたのかと、やりきれない気持ちになります。
しかしおそらくそれは誤解です。科学の本質を履き違えたために起こった悲劇だと思います。
科学の目的はわからないことをわかろうとすることと同じように、
「わからないことをわからないときちんと認めること」にあるということ、
おそらく多くの科学者が、後者の目的をわすれてしまっているのです。
2.今、「科学」が暴走している
すぐれた科学者には権威がつきものです。
科学を極めた人でなければわからないような、ものすごく立派なことを言っているイメージがあります。
勿論、科学によってわかった知見を人々に伝えることは大変意義のあることだと思います。
一方で同時にわかっていないことをわからないと言うことも科学者たるべき態度です。
しかし、いつの間にか科学者が権威的な存在となってしまったが故に、
「わからないこともわかっているかのように伝えてしまう」ということが今様々なところで起こっているのではないでしょうか。
例えば、マスクの効果に対して断定的に論じるのは、その典型的な兆候だと思います。
マスクでわかっていることはウイルスの大きなの粒子が通過する量を幾分減らすことができること、
しかしマスクを通過するウイルス量が減ることが、ウイルス感染症を予防するとは限りません。
なぜならばウイルスの量が少ないとウイルス感染症を発症しない保証はないし、
ウイルスはどこにどれだけいるかわかっていないからです。
常在ウイルスというものの存在も言われていますし、マスクの裏側にもびっしりウイルスがついている可能性だってあります。
これらのことは「わからない」と答えるのが科学的だと思うのに、現実には「マスクには効果がある」という前提で話が進んでしまっているように思います。
「わからないことをわかったかのように進めてしまうこと」、それが「科学の暴走」の本質です。
3.「科学」の本来の目的を見失わないために
勿論、世の中にはたとえわからないことがあったとしても、
現実的に何らかの判断を下していかなければならない場面はあると思います。
しかしわからない中で判断を下すのであれば、何が正しい選択であるかもわからなくて然るべきです。
けれど、現実には「科学的」と冠する行為や価値観だけが重宝され、それに従って皆動いています。
ある意味で科学によって行動が制限されているような状況です。
科学は本来わからないことをわからせているだけなのに、なぜこんなにも歪んでしまったのでしょうか。
唯一の希望は、この制限が実質的な強制ではなく、あくまでも観念的な制限だということです。
この観念的な制限に縛られないために重要な考え方について最後にお伝えします。
それは「わかっていることだけを見て判断する」ということです。
私はこの思考を「事実重視型思考」と名付けています。事実重視型思考においてわからないことは常に「保留」とします。
気をつけてほしいのは「科学的事実」と言っていることが必ずしも「事実」ではないかもしれないということです。
たとえ「科学的事実」だと言われていたとしても、それが事実かどうか確認できないことであれば「保留」にするべきです。
もっと言えば、自分の目で確かに確認できたこと以外は大なり小なり保留の余地を残しておくとよいです。
そうすれば、科学の本来の目的も活かしながら、私達はよりよく人生を生きられるのではないかと思います。
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