見出し画像

石巻

 彼女の実家へ初めて出かけた日の目的は、のちに義父となる人の葬儀に出席することだった。
義父には生前には会わず終いとなったし、声も聴けなかった。今となってはその時の自分が何を考えていたかは定かでないけれども、居てもたってもいられない気持ちで、神奈川から一路、東北を目指していた。

 学生時代の最後だった。確か、お台場でのアルバイトを終えて、ゆりかもめに向かう歩道橋を上っていたときのことだった。電話の向こうから動揺した彼女が告げたその出来事は衝撃だった。
 当時は相模原に住んでいたから、一旦、出かける支度でアパートに戻り、翌朝一番で新宿から上野に向かって東北新幹線に乗ったのだと思う。告別式に間に合わせようと思うと、ほとんど始発だったのではないだろうか。

 「こまち」だか「やまびこ」だか「なすの」だか「つばさ」だか「MAX」だか、聞きなれない名前が連呼されるホームで僕は戸惑っていた。途中駅で切り離される、とは何のことだ? 自由席はこうも僅かしかないのか? とか、東海道では考えられない不条理さと不安に動揺しながら、やっと見つけた空き席に片膝をつくと周りを見渡した。ここはまったくの異国だった。

 半分くらいのことばが聞き取れずに耳からこぼれ落ちた気がした。昔、啄木は懐かしいと言ったそうだが、私にはとても新鮮だった。そして、「あの日」以降、辿ることもできなくなっているが、仙台のあおば通り駅から、かつて「うみかぜ」と呼ばれた快速車両に乗って1時間もすると終着の「石巻」駅に到着する。途中、松島のあたりでは列車は湾の上を走り抜けていく。緩やかな弧を描きながら、視界には湾の島々と太平洋の水平線が広がっていく。のちに私の大好きな車窓風景のひとつとなった。

 石巻のホームに降りたとき、勢いここまでやって来たのは良いものの、ふと我にかえり、はて、神奈川からひとりでやってきたこの「自分という見ず知らずの人間」をいったいどう説明したら良いものだろうか?と、禅昌寺に向かうタクシーを捕まえながら考えていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?