宮城谷楽毅1-4巻

●概要●

中山国出身の楽毅は斉に3年間留学。帰国後に趙の武霊王の狄討伐の動きを知り、太子と共に魏へ支援要請に行く。中山王は愛人の子供を王につけるべく太子暗殺を計画、それを避けながら中山国に帰国。その後太子は将軍として楽毅を軍師とし趙の侵略に備える。趙の武霊王は中山国を横断しようとするも、太子と楽毅の応戦により撤退。その後中山国が外交政策を打たぬ間に、再度武霊王が中山へ侵攻。楽毅と太子は離れた城に配置され、楽毅は太子の身を案じながらも西の塞を守りきる。2巻へ。

戦いで楽毅は父を失い、中山王との関係も悪化。中山王は4邑の割譲を条件に和睦を結ぶこととし楽毅を使者として送り込んだが、武霊王の謀略により殺されかける。その後楽毅は中山国の重臣司馬熹・斉の宰相孟嘗君の裏工作で東の邑の奪還作戦に赴き成功。数年後再度武霊王による中山国侵攻開始。
中山国の太子は中山王と共に首都にいたが、司馬熹が中山王を殺し司馬熹も死亡したため、太子が中山王となる。その後首都は陥落し、新たな中山王は斉に逃れるも病死。子の尚が中山王となる。楽毅の部下と尚は東の2邑に立て籠もる。そんな時趙と斉が結託し中山国を攻め入るという報せが入る。
楽毅は活路を見出すために兼ねてから世話になっていた商人を訪ねる(この時に商人の娘と結婚)。その時に燕の郭隗に会うよう勧められる。3巻へ。

郭隗は燕の昭王にまず郭隗を師として仰ぐことでそれをみた各地の賢人が燕に集まるだろうと進言していた(まず隗より始めよの語源)。郭隗は楽毅を昭王に会わせ、楽毅は中山を扶ける利を昭王に説いたが容れられず、中山国へ帰還した。その後郭隗は楽毅に金を送り貸しを作った。
楽毅は西に自然の要塞を利用した砦を築き徹底抗戦したが、中山王尚が部下を思い降伏。中山国は滅亡した。
戦を終えた趙の武霊王は後継を愛妾の子である勝にしようと考えていた。そこで武霊王は謀って前に太子を廃された安陽君と太子から既に王に昇格している何王を呼びつけ共倒れさせようとした。
何王と安陽君は争ったが、武霊王の謀略を知った何王の家臣たちは武霊王の兄弟である公子成を味方につけ安陽君を殺害。さらに何王を守るために成と何王の臣下たちは武霊王のいた台を3ヶ月間包囲し、武霊王を餓死させた。
どこの国に仕えるか迷っていた楽毅は魏へ行った。
4巻へ。

魏に入った楽毅は法学者の門下生となり法を学んだ。その頃斉の湣王が孟嘗君を追い出したため、孟嘗君は魏へ亡命。魏王に迎えられた孟嘗君は楽毅を推薦し、燕王の元へ遣わす。孟嘗君と魏王の計らい、および燕の昭王の熱烈な招聘で楽毅はそのまま昭王の家臣となる。
昭王は楽毅の言をよく聞き、重用した。楽毅は各国の外交謀略に奔走する。斉国と各国の国交を断絶させると、斉軍と共に宋討伐を行った際に斉軍を攻撃し、燕と斉は開戦する。この時、秦・趙・魏・燕軍が連合し斉を攻めた。燕軍以外の国は欲しい土地を攻略後、帰国したが、燕軍は斉の城を次々と攻略した。
敵の虚をついて斉の首都臨淄を攻略した楽毅は、宝を集めて燕王に届けた。斉の湣王は衛に亡命するも疎まれ、自国の莒に拠ったが、南から斉を救援してきたはずの楚の将軍に殺された。まもなく楚の将軍も斉の民に殺された。残すところ二城になった斉国の城の攻略に、楽毅は月日を要した。
二城を落とさぬままに昭王は病死した。二城を守った斉の田単が、楽毅と昭王の後に燕王になった恵王の仲が悪いことに目をつけ、離間の計を使った所、恵王は楽毅を処刑しようとした。楽毅は亡命して趙へ去った。恵王は別の将を斉へ送ったが連敗し、燕がとった斉の七十余城を田単が全て取り返した。
燕王は楽毅を呼び戻そうと書簡を送ったが、先王の名を汚したくないがため亡命したと先王への忠心と恩を明らかにした手紙を送り返し、ついに燕に戻ることはなかった。

終わり

●好きな台詞

・生まれてしぬまで、同じであり続ける人などどこにもいない。
・趙軍には武霊王に勝る軍略の才を持っている者がいないので、武霊王を補佐する軍師は不要であり、武霊王自身の頭脳で軍が動く。軍事・行政・外交は同様に武霊王の決定に従うだけであるのが趙の群臣の実態であり、それでは人材が育たない。
・昨年、趙に大勝した時点で中山は外交において活路を探るべきだったのにそれをせず戦勝を祝賀するばかりで自国の強さを信じ、趙を侮った。
・軽蔑のなかには発見はない
・この世を独りで生きている者は多くない。兵が戦場で死ねばその家族に空虚ができる。そうならないようにするのが将のつとめである。「わしがこの者たちを護り、この者たちによってわしは守られる」
・中山王や太子、民のことを考えれば戦わずに降伏し食邑をもらえるはずなのに、自分はなんのためにこの塞を死守しようとしているのか。これは中山王への忠誠ではなく太子を守るための行為であり、心は太子にある。どうしてそうなるのか自分でもわからない。この世で自分で自分が分かっている人はほとんどおらず、自分が一体なんであるのか分からせてくれる人に巡り会い、その人とともに生きたいと願っているのかもしれない。
・楽毅「公子、勇気を持たれることです。勇気とは、人より半歩進み出ることです。人生でも戦場でも、その差が大きいのです」
・臣下に対しての好悪を待遇や態度に表すことは正直というよりも精神的に幼い。あるいは人として弱く自立の真の意味を理解していない。孤独を貫くには勇気がいる。全く援助が得られない立場になって初めて自己と他者というものがわかる。自分で考え、自分で決断し、自分で実行する。これほど勇気を必要とすることはない。
・「人知れず耐えるのはつらい。が、耐えるということは、もとより人に見せびらかすものではなく、孤立無援のかたちにほかならない。志が高いものは、それだけ困難が多く苦悩が深いということだ。」
・頭の高いものは足元が見えない
・人が目的を失った時に目的を作るというのが才能というものではないか。平穏無事を多数と共に満喫しているようでは急変の際に対応できず、人の生命と財産を守り抜けず、輿望を集めることはできない。常に戦時をおもい、襲ってくる困難をあらゆる角度で想定し、次々に対処して行かねばならぬはずでかる。いわば人の大小賢愚吉凶は平穏な日々、不遇の時の過ごし方によって定まるといっても過言ではない。
・君主とは自分の感情に殉じてはならない存在である。
・「なぜ」という問いが実生活のなかから生じなければ知恵は身につかない。
・死は取り返しがつかない。生きるということは取り返しがつくということである。楽毅は戦って死ぬことを考えない。戦って生きるのであり、生きるために戦うのである。戦いは進退が全てであると言って良い。それゆえ、生きることも進退なのである。美しさがあるとすれば、進退にこそある。その進退を生死にすりかえて仕舞えば人は終わりであり、敢えて言えば死ぬ前に死んでいる。
・高信期「私は安陽君が治める趙では生きていたくない。あと5日か、今の王の御代であれば、その5日を精一杯生きれば満足だ」
・「楽毅は不運続きであった。度重なる不運をしのいできた男だ。人は不運ゆえに胆知を練り、知恵を育てる。幸運の続く者がそんなことをするか」
・単余「泣く者は笑い、笑う者は泣く。同じことのようだが、どちらが先かで人生は全く違うものになる。恐ろしいことだ」
・生きるということは起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。騒がしさを放つことだ。自分の騒がしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
・戦場においてはおのれがおのれであることにこだわれば死ぬ
・分かるということは教義を心身におさめることで終わりではなく、挙措進退に、日常と非常に、活かすことでなければならない。まずそれを知ることから、人の深化がはじまると言って良い。軽々しい理解の仕方をする者は、己の深化のための端緒をつかめないまま、時勢に流されてゆくだけだろう。
・楽毅「言葉は飛翔する。ここには私と汝しかいないが、口から出た言葉は必ず飛び立つ。それゆえ、詳しくは語らぬ」
・楽毅「結局欲を断つことが自分を守ることになる」
・楽毅「私と汝(里昉)とは違う。私を見習えばかえって失敗するかもしれぬ。敵を侮らず、己の勇をたのまず、自軍の兵をいたわることを忘れるな」
・楽毅「家族だけのことを考えて生きてゆけば、穏やかでよいかもしれぬ。しかし、それだけの人生だ。他人を思いやり、他人の心を容れて、他人のために尽くせば、自分だけでは決して遭うことのできぬ自分に遇える。どちらが本当の自分か、ということではなく、どちらも自分であり、敢えて言えば、自分と自分との間にある全てが自分である」
・楽毅「留学中の私は人が見事に生きるとは難しいと考えたことがあった。それからおよそ三十年という月日が流れて、私は同じところ(臨淄)に立っている。私は見事に生きてきたのか、とここで問うつもりであったが、その問いの虚しさに気づいたよ」「見事に死ぬことはできても、見事に生きることはできまい。第一、生きていることは人の目に映らない。見よ、市中の人々を。買い物に熱心で、人を見ず、自分を忘れている。生きているということは、こういうことだ」(昭王が没し嗣王である恵王が楽毅を追放しようとした時の言葉)

●感想●

宮城谷先生の楽毅への愛と尊敬の念を感じた。史書を読んでいないので客観的事実と照らし合わせることはしていない。普通の小説はあまり読まないので比較できないが、史実に沿って書かれた歴史小説は人の虚しさが容赦なく描かれるので心に感じるものがある。私は浅慮であり、狭量なので、楽将軍を語るには稚拙な言葉しか浮かばず、敢えて書こうとしたら楽将軍を汚してしまうような気がする。

この小説の個人的な見所は以下のとおり

①中山国滅亡時...楽将軍が信念を持って最後まで抵抗し尽くした場面。それまでの中山国王への苦悩。

②孟嘗君との再会...中山国の敗将楽将軍と斉を追われた孟嘗君が大泣きする場面。将たる2人が積もりに積もった思いを吐露出来ず、孤独に耐えていたことがわかる。

③燕の昭王の楽毅に対する処遇...あまりにも厚い。信頼関係が見て取れる。楽将軍はそれでも臣下に甘んじ、謙虚でい続けた上、信頼に応えようと奮戦する。

④趙に亡命する前の臨淄にいる楽将軍...これは場面というより台詞が好き。中山国王に忠誠を誓い最後まで砦に立てこもったが敗戦の将となった楽将軍が、燕でまた起つも、最終的に趙に亡命するという人生を辿った後に言ったことを考えるとあまりにも切ない。楽将軍にとって見事に生きるということは、どういうことだったのかと浅慮な自分には分からない。臨淄から燕に行くまでに色々考えた末に亡命を決断しているので、最終的に燕で死に晩節を汚し先王の評価も地に落とすのか、ということに絶望したのかもしれない。それと、生きていることは人の目に映らないというのは、暗に燕の恵王を揶揄しているのか。恵王は買い物(斉への遠征)に夢中で、人(楽将軍をはじめとした配下たちや、民、他国)を見ずに、自分(恵王がどのような立場にいるのか)を忘れている、ということなのだろうか。個人的には、見事に生きるというのは、自己満足の世界でなしうれば良いもので、誰かにその評価を委ねるものではないとは思うけど。

とても素敵な作品でした。好きです。

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