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「仏壇のお花を替えてほしい」で気付いたこと

ほぼ介護ベッドで過ごすようになったおばあちゃんに言われて気付いたことについて。
数か月前から、我が家と伯父さん家族交代で祖父母の家に行っています。理由は在宅介護です。おばあちゃんは余命宣告を受けた末期癌、おじいちゃんは認知症のため二人だけでは生活出来ないのですが、両人の希望により自宅で過ごしているところです。まあ、おばあちゃんは宣告された余命を2か月も越えて元気に食事が出来るし、おじいちゃんは腸閉塞になったのに自力で直した91歳、冗談も達者なツワモノ夫婦なのですがね。笑

仏壇の花交換を頼まれた

普段家へ行った際は、三度の食事、食事前後の薬、その他家事や頼まれ事をします。いつものように配膳の準備をしていたのですが、ある時におばあちゃんが「仏壇のお花を替えてほしい」と私に頼んだことがありました。確かに少しくたびれてしまっていたので、庭に生えていたお花をいくつか摘んで入れ替え、仏壇に落ちた花びらや花粉を拭きます。そしてさっぱりした仏壇に満足しておばあちゃんのベッドへ戻った時に初めて、おばあちゃんの頭の位置から、少し距離はあるもののちょうど仏壇のお花が良く見えることに気が付きました。

おばあちゃんからの景色を見ていなかった

その人のことを気にしていても、本人から見えて居る景色は全く違うし、自分はそれを気にしていなかったのだということを痛感した出来事でした。おばあちゃんの具合を気にして要望を聞いて、尽くしているつもりだった。でも私の視界には確かに、おばあちゃんとその周りしか入っていませんでした。私の後ろにはテレビ、仏壇、こたつ、鶴を折るおじいちゃんが常に見えていたのに。

全部その人になってみる

何かに取り組もうとしたら、一度その対象(人間以外でも)からの視点になる必要があると思いました。それは物理的に、立場的に、または精神的に。言葉ではわかっていたつもりだし、今までに何度か色んな人に言われた言葉でもあります。でも未だに、精いっぱいになってしまうと他の視点で考えられなくなっていることが分かった、典型的な例でした。

自分が一生懸命になっていることでも、その対象にとってはそれが最善でない場合がある、というのは気づけないと恐ろしいことだと再認識しました。おばあちゃんのように言ってくれるならまだ幸せ。全力で取り組むとこの視点が抜けることがまだあるので、どの場面でも肝に銘じていかなければと思う当番介護生活です。



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