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よるべなき男の・・事情

第伍話:よるべなき男の周辺事情

「必要のないことに、労力は使わない主義なのさ」
男と女の情事を「労力」と申すこの男、ハナブサは食えない男でありました。

ハナブサが料理茶屋に出ている長屋の女に「入れ込んでいる」という噂は瞬く間に広がっていきました。ただひとついつもと違いますのは、普段なら真っ先に騒ぎ立てるお美奈が、必要以上に過剰反応することがない…ということでございました。
通常なら、そんな噂が立とうものならすぐさまその噂の出所にに駆け付け、もとを握りつぶし、盛りのついた獣のように激しくやきもちを露わに、ハナブサに蹴散らされようともしつこくついて回る…のが本来の姿でございますが、どうやら今回の行動には「謀がある」と勘ぐったために、辛抱してなりを潜めているという現状らしいのです。

女は時と場合によって口も動けば体も動く、大変に危うい存在でありますが、本能なのか性なのか、その勘働きもまた然りでございます。ゆえにそこにある真実はひとつ、とは限らないということでございます。

「お客さん。もう、ここへはおいでくださいますな」
ことを終えたあとお栄は、首に張り付く髪を払い、襦袢の襟をのろのろと整えて起き上がると、ひとりごとのようにつぶやいたのでございます。
「なにが目的かは知りませんが、ね。厄介ごとは困るんですよ」
枕元に転がる徳利を盆にのせ、文箱に乗せた小さな鏡に膝を擦って向かうと、思いがけず昂揚こうようした頬が映り、自分でも見たことのない恍惚の表情がそこにありました。そんな自分に戸惑いつつ櫛で髪の乱れに手を添えつつ無意識に、鏡越しにハナブサの姿を目で追うのでございます。
視線の先では、まるでふたりの情事の余韻のように、ハナブサの煙管きせるから天井に向かって流れる煙がございます。その煙の不規則な動きに、つい今しがたの成り行きを反復しては喉元に手を当て、未だ熱くため息が漏れそうな感覚に襲われながら、背後の気配を気にして目を固く閉じたのでございます。その仕草は明らかなる恋慕の情を抱きながら、その実震える肩は畏れを感じて落ち着きなく、その場にいることも憚られるような焦りに駆られていたのでございます。

「近々…おつとめがあるってことか」
体をうつぶせにし、肘をついたまま煙の行方を楽しむハナブサは、なにもかもを知った風に鼻先で笑い、自分の思惑に確信を持ったようでもありました。
「なにを言ってるのか、さっぱり…」
視線をずらして答えるお栄は、あまり嘘が得意ではないようでございました。とはいえ、ありていの男であれば誤魔化せたものを、相手が相手だけに、お栄自身この「ハナブサ」という男を知れば知るほど恐ろしくなってきた…というのが本音でございました。

「まぁいい。こちとら厄介ごとにつき合うつもりはない。お前とももうこれきりだよ」
そう言って立ち上がり、襟元を正すと襖に手を掛けた。
「まぁ、せいぜいうまくおやり」
そう言ってあやしい笑みを浮かべると、あと腐れのないよう畳の上に小金を巻き、
「すまなかったね。着物でも新調するといい」
優しくなでるように言葉を並べたのち、思い出したように自分の胸元に手を差し込んだのでございます。
一瞬、お栄は「殺される」と思ったかもしれません。しかしながらハナブサの懐に、ひとを傷つけられるような凶器がないことは承知の上でございました。そもそも店に入る際にそういった物騒なものの類は皆、番頭の預かりになる決まりとなっているからでございます。が、…瞬間的にそんなハナブサの鋭さが、お栄の畏れを刺激したようです。

胸元から出されたハナブサの手には、丁寧な細工の竹簪がありました。するすると音もたてずに、鏡の前のお栄に近づき「出会いの記念に、これを進呈しよう」と、その御髪おぐしに挿してやるのでした。
一連の流れにぽ~っとしている間に、隙間風がお栄を正気にさせましたが、夢でも見ていたような心地のお栄は、鏡に映る偽り用のないその証を見「危ない男だよ」と皮肉をひとつ吐き捨てると、簪がようく見えるように首をもたげ、チラリと鏡に映ったもうひとつの輝きを目にしてすぐさま小金に飛びついたのでございます。
たった今心躍らされた自分を鼻で笑って「ゆきずりと同じさ」と悪態を突き、体を起こすと同時「いい男なのに」と口惜しいように、半ば悔し涙を浮かべていたようでもありました。

さてこのお栄、長屋で父親とふたり暮らしということでございますが、笠職人を生業とする親父殿は「甚五(じんご)」という初老の男でありました。
この甚吾という男、普段はまったくとぼけた輩でございまして、通りに出ればスリに会い、そば屋に出掛けりゃ煙管きせるを忘れ、茶屋に腰かければ手拭いを落としてくる…という、なんとも締まりのない男なのでございます。
普段は寡黙で不調法な男ではありますが、ひとたび仕事にかかれば目の色が変わり、大変に腕のいい職人でありましたから、特に食うに困ることはございませんでした。しかしながらハナブサは、この甚五にそれだけではない…なにか得も言われぬ危険な香りを感じ取っているようでございました。
ハナブサの筋の通ったキレイな鼻は、甚五の裏の顔をもしっかりと嗅ぎつけていたのでございます。

「おとっつぁん。厄介な客は追っ払ったよ」
長屋に帰るなりお栄は、奥の親父殿にそう強く言い放ち、
「いい客だったのに…」
いつまでも名残惜しそうにするその様子は、まるで男を知ったばかりの乙女のようでもありましたが、すぐに我に返り「随分と急ぎ働きになったようだね」と、土間脇の水桶に柄杓を乱暴に差し込みました。
そんな娘の様子を目の端に留め、
「ここも騒がしくなってきたでな」
と、甚吾はこのところの長屋の騒がしさを吐露しました。
普段なら傘の骨を削ったり、紙を張るための糊をこねたりの作業で出迎える甚吾でしたが、今夜の姿はまるで違ったのでございます。明かりも灯らない部屋の様子は、ようく目を凝らさないと認識できずに、しかしいつも所狭しと広げられているはずの傘がそこに一本もないことだけは確認できたのでございます。そればかりか、甚吾はいつもの継ぎ接ぎだらけの着物姿ではなく、真っ黒な装束を纏っており、すっかりと闇に溶け込んでいるようでありました。

騒がしい理由は、長屋に越してきた大工の夫婦の毎晩の痴話喧嘩と、それを止めるでもなく便乗するようにただ喚き散らす浪人の、頓痴気とんちきなやり取りを指してのことでございました。甚吾は迷惑そうに深くため息をつきますと、
「予定外の出来事には、よからぬ触りがあるってことだ」
と、いつになく鋭い目つきで答えたのでございます。
「それで、あたしはお払い箱ってわけかい」
「そうじゃねぇ。今回『女は使わねぇ』とのお達しだ」
「そうは言うけどね。明日にでも江戸を立てとは、きゅう過ぎるだろう?」
お栄は柄杓を水桶から持ち上げ、乱暴な男のように水をのどに流し込むと、
「女を使わない? あたしがなにか気に障るようなことをしたってのかい…」
そう言って手の甲で口元を拭いました。
「お頭にも考えがあるのよ。黙って旅支度をしな」
「はっ…。こちとら万々歳さ。中居なんて地味な仕事のせいで、すっかり手が荒れちまったよ」
柄杓を戻し、寒さをしのぐようにたった今口元を拭った手の甲を撫で回したのでございます。
「お前、そうは言うが。いい思いもしたんだろう?」
そう言って甚吾は初めて、お栄の顔をついと御覧になりました。お栄は瞬間的に髪に挿した簪に手をやるところを思いとどまり、
「そうかい。それじゃぁ、おとっつぁん。またいつか、、、ね」
と不機嫌なままに、激しく戸を開いて出掛けて行くのでございました。

翌朝、江戸市中ではちょっとした事件の話題で賑わっておいででした。
少し前に上方から流れて来たと噂のあった盗賊一味が、前の晩、与力の脇坂靖祢(わきさかしずね)様配下の同心たちの大捕り物で、一網打尽にされた…という景気のいい噂がながれたのででございます。ただひとつきな臭いことは、忍び込んだ屋敷にほど近い料理茶屋に付け火があり、何人かが焼け死んだという不祥事がございました。どうやらこの料理茶屋は盗人の伝達場所としてしばしば利用されていたのではないかというところまでは突き止められましたが、今ひとつはっきりとしたことが解っておらず、詳しい事情まではおりてこないのでございました。

きな臭いというのは、この盗賊「蜘蛛ノ巣一家」と呼ばれておりまして、人知れず屋敷に潜り込み、少しずつなんの変哲もないものから手を付け、屋根裏から畳、床板の下まで蜘蛛の巣一つ残さずに屋敷の一切合切を運び出していく…という、なんとも奇妙な手口の窃盗団でありましたから、盗人ぬすっと宿その他を始末してまで消える必要などどこにもなかったのでございます。

そしてお栄とその父・甚五は、巷を騒がせた「雲ノ巣一家」の仲間内であったというわけでございます。甚吾は得意先に傘を届け歩きながら、町のあちこちで行きかう仲間たちの橋渡しをする「つなぎ役」として働いていたのでございます。更に娘のお栄はしばしば「引き込み役」を担っており、そういった事情から料理茶屋に潜入していたという次第です。
しかしながら今回のおつとめに「女は使わない」との頭目とうもくのお達しに、いくばかりか機嫌を損ねたお栄でございますが、この頭目、名は明かされてはおりませんでしたがなかなかに「事情通である」と考えるのが甚吾でありました。

結果としては「お手柄」であった大捕り物ではございましたが、主要人物がまったく見当たらずに「殲滅せんめつ」というわけにはまいりませんでした。
一足先に旅支度を整え、夜のうちに江戸を立ったお栄の耳に、この騒ぎが届くのはだいぶ後になってからということになります。





まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します