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セカンド・ヴァージンⅡ

   ~ 真昼の情事 (後編)~

夫は不器用ではあるが、やさしいひとだった。
夫を愛していないわけではなかった。
でも愛されているという自信もなかった。

それは夫の出張中のことだった。夫の息子が、夜遅くに年上の〈彼女〉と称する女を連れて「夜食を用意してくれ」といった。「家でゼミの相談をする」ということだったが、夜食を用意しろということは、宿泊も辞さないということだ。
最初は躊躇したものだったが、息子も20歳、干渉する年齢でもないと思い、いらぬ深読みはせずに言われるままに従った。
それに、こんな時こそ「家政婦に徹底しろ」とでもいうかのように、なにを言ったところで、今さら息子が私の意見を聞くとも思えなかったのだ。

「食事はお部屋で? それとも…」
「いや、下でもいいかな」
母親の目も気にせずにそんなことをいう息子に、私は油断し「まだまだ子どもだ」と安堵したのもつかの間、食事を出しキッチンに戻ると、子どもだと思っていた息子から大人の会話が聞こえて来たのだ。
「お母様、若いのね」
「もう30も半ばのおばさんだぜ」
「わかってないわね」
確かに、20歳の息子からすれば私はただのおばさんだろう。だが、年上の彼女と称する女は、小娘ではあったが明らかに熟れた女の匂いを漂わせていた。
本当に勉強をしに来たのだろうか…そう疑い始めたとき、この小娘は驚くべき言葉を口にした。
「あんなに若いお母さまなんて、妬けちゃう」
それは皮肉にも取れる、屈辱的な棘を孕んだ言葉。
「なに言ってんの?」
「だって。あなたのお母様、いやらしい体つきしてるわ」
「バカ言うなよ、なんの手入れもしてないただのだらしない体だぜ」
「そんなこと言って…聞こえるわよ」
「親父にも相手にされてないんだぜ」
「やぁだ、かわいそう。わたしなら耐えられない」

私は耳を疑った。だが、言われても仕方がないのかもしれないとも思った。

なんの手入れもしてないだらしない体・・・・
親父にも相手にされてない・・・・

怠惰な日々に一石を投じるには充分な言葉だった。

確かに私は、夫に相手にされていない。
それゆえのだらしない体。だらしない・・・・
私とて耐えてるわけではない!

・・・・そもそもしあわせなの、あなた
・・・・そういうものじゃないわよ、女のしあわせは

ふみえの言葉がよみがえる。
ふみえと、あの「れんげ」と呼ばれた若い男に会ったあの日以来、悶々と考える日が続いていた。世間ではそういうことを「よし」とする人間もいる。

考えてしまっている私がいる・・・・

確かに私は満たされてはいない。考えないわけでもなかった。
何不自由なく暮らせているだけで、日々に感謝しなければいけない。夫がひどい暴力をするわけでもなく、ぞんざいな扱いをされているわけでもない。ただ、夜にひとりで眠るだけだ。
眠ってしまえば、みなひとりだ。ただ、そこにたどり着くまで悶々とするのか、快楽を得られるか、それだけの違いなのだ。きっとそれは詮無いこと。考えなければなんのことはない本の数時間の憂鬱だ。このまま一生を終えても、それはそれで幸せなのかもしれないと思い込もうとしていた。

でも、逃げ道があることを知ってしまった。
目を閉じていた部分を見てしまった今は、考えてしまう自分がいる。

いけない、いけない、いけない・・・・
それは許されない行為。でも。

彼女から電話がないことは幸いだと思った。なのに、まるで焦らされているようなこのもやもやはなんだろう…。イライラする。

そんな鬱々とした日々をようやっと忘れ去ろうとしていたある日、ソファで転寝をする夫の手から、なにかが落ちる音がした。最初はなにが落ちたのか解らなかったのだが、ソファの下に滑り込んだそれはうっすらと灯りを放って、まるで私を誘っているようだった。
画面がついている。夫の手に触れたために電源が入ったのだろうと思い、なんの疑いもなく拾いあげ、だがその画面に驚き、私は携帯を取り落とした。
次の瞬間、夫が目覚めないかと確認し、携帯を拾い上げる。徐々に灯りを失っていく画面を、再び呼び戻そうとそっと指をのせた。

そこには露わな姿をさらした若い女が、赤いソファの上で身体を全開に開いている画像が動いめいていたのだ。

それは動画だった。若い女は自分よりも幾分年上の、浅黒く筋肉質な太腿の間に頭を預け、片足を背もたれにのせ、もう片方の足を床に、女の花園を隠すことなく開放し、指をくわえて揺れていた。しかもその女の足元には、もうひとり若い男がいて、恥じらいの吐息を漏らしながら、花園の艶めく草原地帯への近接を許すばかりか、嫋やかな花弁を無骨で配慮に欠けた男の指に弄ばれているのだ。
夫の存在など忘れ、凝視してしまう。そして、私は・・・・!
不覚なことに、しっとりと愛の泉を蓄えんとしている湿地帯を前に、自分のそれを重ねて濡れていた。

なんてこと・・・・!?

私は我に返り、夫の携帯をテーブルの上にそっとのせて、リビングを静かに立ち去った。

子宮が疼く。忘れていた痛みを求め、しゃくりあげるほどに、愛を求めて乾いたそれは、啼いているのだ。
階段をのぼりながら、右手で自分の左乳房を強く掴んで弱点を探る。愚かだと思いながらも寝室に入り、ドアにもたれて自分の乳房の弱く儚い主張を、服の上から激しくひっかいた。
あぁ…まだ、まだ私には、こんなにも情熱が残っているというのに…!
虚しさに涙が出た。そして、自分の乳房をひっかいたその指で、たまらず顔を覆って泣いた。

こんな仕打ちって、ひどすぎる・・・・!

夫は私を抱かないくせに、少しの仮眠のためにあんな画で安らぎを得ているのかと思うと、のうのうと寝室のベッドで大事に寝かされてた自分が情けなくなった。

このままでいいわけがない・・・・終わりたくない・・・・

私はふみえの連絡先を探した。絶対に自分から連絡をすまいと思っていた、ふみえの電話番号を自分から押したのだ。


『やっとその気になった?』
ふみえは勝ち誇ったような声でそう言った。
そんなにも私は、物欲しげな顔をしていたのだろうか。
何も答えられずにだまっていると、
『一度、サロンに来てみる? それとも…』
「…れんげ、を、お願い。れんげでいいわ」
この際だれでもいいと思った。一時の気の迷いを払拭するだけなら、れんげだろうがたんぽぽだろうが変わりはしない。
『そう? いつがいい?』
今すぐにでも…とはいえずに、夫の帰りが遅い曜日を指定して電話を切った。そして後悔した。勢いで電話をしたものの、当日になったらまた怖気づくかもしれないと思ったからだ。

約束の日まで、努めて平静を装うとした。自分が浮かれているようで気が気じゃなかった。だが、夫がそんな機微な女ごころに気づくくらいなら、私は初めからこんな気持ちにはならなかっただろう。
気持ちはわかるのだ。衰えていく自分の体力に、夫が落胆していることも解っていた。だが私は、それでもいいと思っていた。ただ、隣で寝てくれるだけでも安心できたのに・・・・
拒否したわけでもないのに背中を向けられた私の気持ちを、少しでも考えてくれたなら、こんなことにはならなかったのだ。
そうやって私は、自分にたくさんの言い訳を用意した。

そわそわしないではいられなかった。息子に「だらしない」とまで言われた怠惰な身体を、最低限女の身体に戻さなければ…と思った。ムダ毛の処理をして、眉を整え、肌を整え、そうこうするうちに気持ちも弾んだ。忘れていた私の中の女が目覚め、嬉しいと叫んでいる。

当日、昼の日中、デパートの最上階のレストランで待ち合わせをした。「時間があるなら食事でも…」と、前日のふみえの電話で連絡を受けていた。
とても食べられるような気はしなかったが、落ち着く時間は欲しいと思っていた。
れんげは時間より早くに到着していて、席を取って待っていた。そんな気配りが嬉しいとは思ったが、すべてがこの後の為だと思うとやさしさだとは受け止められなかった。
「お腹空いてないですか?」
「そうね。それほど」
私は気休めにもならないと思ったが、アルコールを頼んだ。とても酔える状態ではなったが、とにかく喉が渇いていた。
れんげは若い男らしく、ステーキを頼んで食べた。なんの含みもなければ、その行為も食べっぷりにも頼もしさを感じていたかもしれない。だが、あの口が私と接触するのかと思うと少し残念な気がした。
食事代は私が払った。一応遠慮はしていたが、れんげはそれが当然のような顔をしていた。

店を出て、電車に乗り、隣の駅に向かった。駅を出るとれんげは、振り返って手を差し伸べた。
どこに行くかは解っていたが、気を遣ってくれたのだろうと思ってその手を取った。やわらかい、苦労を知らない手だった。そこから10分、つながれた手を見て一歩後ろを歩いた。これが普通のデートなら、もっと違う感情を抱いたのだろうか。それともこれもデートだろうか。
かつて私は、れんげと同じ年齢の頃、会社の上司と不倫をしていた。当然こんな明るい時間にふたりで歩くことはなかった。身を寄せ合って、人目を気にして歩いたあの頃・・・・あの時と、同じ気持ちが戻ってくるだろうか。

慣れた足取りで、戸惑うことなく私の手を引くれんげ。
彼女はいないのだろうか。それとも、彼女がいてもビジネスと割り切っているのか。余計なことを考えるのは、やはり私が歳をとったせいだろうか。
閑散としたビル街に入っていく。私には見慣れない風景だったが、前を歩くカップルが、角を曲がった途端に密着して歩いているのを見ると、そこはそういうところらしいと納得した。
「前のカップル、多分ホテルですよ」
「え?」
そこでようやくれんげの顔をみた。
「ほら、同じところに入った」
その言葉で、自分たちもそこに入るのだと知った。

なんの変哲もない部屋の中が、余計に緊張を誘う。
窓があるわけでもなく、照明もオレンジ色なのに、思ったよりも明るい。
れんげは黙ってバスルームに行き、お湯を貯め始めた。
「一緒に入りましょ」
「え?」
「せっかくだから…」
そう言って私の服に手を掛けた。黙って従った方がいいのか、でも。
「先に入って」
その手を払った。
「そうですか? 一緒に入りたいのに」
「あとから行くから」

若い男は一生懸命だった。こちらの恥じらいや落ち着きのなさが、返って気を持たせていると感じたらしく、最初は気遣いを見せてくれていた。だが、途中からこちらの反応が悪いことに気分を害したのか、若さを武器に、荒々しい息遣いと共に激しく、躍動する肢体をふんだんに使って攻めて来た。自分の強さを誇示するように、私の態度が彼の昂る男根に火をつけたのか、その時彼は「れんげ」ではなくなっていた。
私は乱れることもなく、天井の模様を覚えられるくらいに冷静で、申し訳ないくらいつまらない女だった。それは自分が「セカンド・ヴァージン」だからとか、しばらく時間が空いたからとか、そういうわけじゃないことは解った。あんなに焦がれていた情事が、目の前で繰り広げられているというのに、私の頭の中はなんの感動を覚えることなく、擦れる音や、肌のぶつかる音が、不快でならなかった。
求めていたのは、体ではなかったのだとその時知った。

帰りはきたときよりも静かだった。裸になったせいか、緊張もなく、言葉も滑らかで、部屋の明るさも気にならなかった。
なにか一言、二言、話をしただろうか。覚えていない。店を出て駅までの道を歩いた。来るときは繋がれていた手が、今は行き場をなくして揺れている。それどころか、話をしているのに視線を合わすことさえない。顔すら見ない。

あぁ、手を繋ぐことすら前戯だったのか…と、その時思った。








まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します