見出し画像

脳内殺人 ~ 生きながらにして ~


ひとは誰しも一度は、頭の中でだれかを殺したことがあるのではないか。


わたしが最初に殺意を抱いたのは実の祖母だった。
祖母は子どもが嫌い…もとい、苦手な人だった。本人の中ではうまくこなせていると思っていたのかもしれないが、子どもの扱いがまったくなっていない。子どもが目の前で遊んでいると、その端からおもちゃを片付けて歩くような人だった。
口から出てくることはいつもブラックで、そんな言葉しか覚えてこなかったのか、むしろ頭がいいのかと、年寄りの頭の中はどうなっているのか考えさせられることさえあるほどに、悪態しか出てこない。
なによりも苦痛だったのは食事の時間。なにをしでかすというわけでもないのに一挙手一投足、見逃しもせずに揚げ足を取る言動を繰り出す。意地悪ばあさんよろしく容赦ない。

いつか殺してやる・・・・

幼年期でありながら、いつからかそう思うようになり、どうやって実行に移そうかと本気で考えていたこともあった。その手段として、間違えたふりをして階段から突き落としてやろうか…というのが第一候補だった。だが狭い家屋の階段では、意図してついて歩かない限りなかなかに一緒になることはなく、加えて顔を見ればなにか皮肉を言われるので、近寄りたくなかった。
次に考え付いたのは「毒殺」だった。しかし子どもの頭の中の毒などたいしたものではなく、祖母の茶碗にうすくママレモンを塗ってご飯をよそる…程度の考えしか浮かばずに、しばらくそれを繰り返していたが、それは「食器がちゃんと洗えていない」と文句を言うにとどまり、母を追い詰めるだけとなった。

例えばこの時、仮に殺人が実行できていたとしたなら・・・・
子どもだし、涙で逃れることができるか!? だがしかし、である。そこでやらかしちまったらきっと、そのあともやらかしそうな気がするのだ。そういう所業は一度味を占めたら…げフン、げフン(; ・`д・´)

子どもは非情だ。好き勝手口にする。わたしはそれを行使した。ありとあらゆる手段で祖母に抵抗した。それ以上に不愉快な思いもしたが、小さな子どもの脳みそはその程度の攻防しかできなかった。だが、少なからず精神的苦痛を与えられたのではないかと思う。いや思いたい。他人なら弁護士が出てくる程度には生きながらにして苦痛を与えられたのだと・・・・


次に殺意を覚えたのは小学校の先生だった。
彼女もいい加減引退の近い年寄りで、とにかくえこひいきの激しい教師だった。だが、彼女には学校に行かなければ会えないし、わざわざついて回るのも面倒だった。なにより、香水がきつかった。その香水の名は「濡れた犬」だったか「ナフタリン」か、あるいは「ローズ」。

基本的に年寄りが苦手なのか…? でも物心ついて初めて関わる老人は当然のことながら身内で、自分に近しい人間で、家の中に居なけりゃ近所? だがわたしが出会った最初の老人が老害すぎた。ゆえに老人、特に老婆はみんなそういうものだ…という認識が植えつけられる。そしてこれだ。
多感な少女であったわたしは、当然ながら彼女に嫌われ、執拗な指導を受けた。これを指導と言っていいものか、自宅の厭味ばばぁが学校にまで出現したような、そうそれは妖怪の仕業のような日々だったのだ。
まだまだ家の中の老人も幅を利かせてのさばっている中、唯一解放されるはずの日中に、更にこんな出会いがあったなら、それはそれは最悪だ。さすがに先生に対しての殺意を形にしようとまでは思わなかったが、ここである程度の人生の岐路を狂わされたことは言うまでもない。

時に子どもは馬鹿を行使できる。自分に対しやり難さを感じている人間に対し、やりがいをそぐことが当時でき得る限りの抵抗だった。とはいえ、それは故意に行ったわけではなくそれが実力だったわけなのだが、おかげさまで1年間彼女をイライラさせられたことは言うまでもない。こちらも、結果、生きながらにして苦汁を与えられたと・・・・


最後に殺意を向けたのは夫だった。
この頃になるとさすがに「殺人」を犯してまで現状を逃れようとすることは厳しいと知っていた。しかも成人している。怪しい行動はすぐにお縄だ。だが、どうにも解放されたいばかりに、出先でなにか良からぬ事態に遭遇してはくれまいかと毎日のように祈っていた。いや、願っていたのだ。
いい加減大人になると分別もあり、そんな禍々しい考えを持つ自分を恥もした。だが、思うだけなら罪にはならないとひそやかに胸に沈めた。

なにが悪いというわけではない。釣った魚のエサはだいたい忘れられるのがこの世の常だ。しかも、エサを忘れられたばかりか、エサをくれない旦那ばかりでなくエサを取り上げる姑も然りであった。
恋愛時代の理想は儚く消えた。儚いばかりか現実は、家庭環境と生活の違いから、自分のペースや人格までもを狂わされることになる。挙句の子育て、当然協力を得られるわけはなかった。産んで育てる、それは女の仕事ではあるが、それが妻の義務、そして嫁の当然と「渡る世間は鬼ばかり」とはよく言ったもので、世間に知られるありとあらゆる苦悶のオンパレードだった。期待は膨れるほど苦痛となって自分に帰ってきた。

しかし現実に、出先でなにか良からぬ事態に遭遇されたならば、自己嫌悪に陥っていたかもしれない。陥るどころか挙句の果ては看護に追われ、最悪の場合は永遠介護だ。健康第一「亭主元気で留守がいい」とは言いえて妙だと先人に手を合わせる。

とにかく姑がネックだった。若かったこともある、お互いに。同じクラスに居たら友だちにはならないタイプだ。もうそれだけで同じ屋根の下に暮らすことがどれほどのことか想像できるだろう。
人間、どこに行こうとも、環境が変わろうとも、自分と相容れない人間というのは必ずいるものだ。家の中、近所、学校、会社、嫁ぎ先…それらとうまく付き合ってこその人間関係なのだろうが、時に心折れることもあり…子育てで疲れていたわたしは、台所に立つたびに殺伐としていた。なにせ台所には包丁その他、人を傷つけられるグッズがそこかしこにある。包丁を持っていなければ、箸で目を突いてもいい、ぐらぐらと煮えたぎるみそ汁をひっくり返すことだってできるのだ。そこでわたしは、この次義母になにか言われたら、思いのたけをぶつけてそれらを実行に移してやろうと思っていた。ただそれは相手にではない。そう、殺人でお縄になるくらいなら、罪悪感をたっぷりと相手に課したうえで、目の前で自分を殺してやろうと思っていたのだ。生きながらにして地獄を味合わせてやろうと・・・・


幸いなことにひょんなことから家を出れることになった。さらに幸運なことに、相手の不手際から離婚ができることになった。いいことは続かないというが、それまでいいことがなかったわたしには「ご褒美」でも賜ったかのように子どもを連れて円満離婚できる運びとなった。この時ばかりはどこかにいるかもしれない神に感謝した。慰謝料こそ手元にやってこなかったものの、そんなものよりも素晴らしい自由と尊厳、子どもとの穏やかな生活が訪れた。
数々の苦悩を乗り越え、ようやっとわたしは、現実に殺人を犯さず「脳内殺人」にて、生きながらえて安息の時を手に入れたのだ。



まだまだ未熟者ですが、夢に向かって邁進します