匿名掲示板での誹謗中傷と宮沢賢治著『虔十公園林』
「匿名掲示板での、炎上や誹謗中傷」に関して、あちらこちら、ぽつりぽつりと耳に入ってくる。
皆、一様に、酷く疲れ切りながら、対応に追われたり、それでとことん疲弊したりしている。
私は 20代 の頃、 自分が2 ちゃんを荒らしてしまって 2ちゃんの人たちに 迷惑をかけまくり、 出禁同然になってしまってから、 2ちゃんでも 今主流の 5ちゃんでも、 叩かれなかったことは ずっとない。
というか そもそも、 私はかなり 思いつきで 何でもかんでも発信するので、 いわゆる「 DQN」 で言えば、 私より「 DQN」 じゃない人を 見つける方が無理だろう。
と思っているので、 それは叩かれて当然だ わな、と、 自分のことはそう思っている。
自分で自分の発信していることを見ていても、 冷静に 自分自身を見れば、「うわ、 ものすげえ DQNだわ」 としか思えないのだ。
いや 確実にものすごい「 DQN」 が私であるのだ。
「 悪口を 言っている人も、 誰かには必ず 悪口を言われているわけで、 悪口を言っている人も、 どこかで何かで傷ついているのだ。
みんなで誰かを袋叩きにすることは、 集団心理 の快感かもしれない。
出る杭は打たれる。
だけれども、 どんなに 大勢の 人から叩かれても、 その人 個人の個性も魅力も 殺すことはできないのだ」
私は DQN だから置いといて、 他の人 が 叩かれているのを見るにつけ、 心からそう思う。
匿名掲示板による 誹謗中傷。
私個人に関しては、 叩く人 の存在も 否定はしたくはないし、 私は匿名掲示板は その存在はあっていいと思っている。
だから私自身に関しては、「 DQN ですが ご笑納 くださいな」 といった感覚で生きている。
人の悪意。
心の中に ある、 悪意という 普段気がつかない 感情が、 集団になるとなぜか芽生えやすいのが人間だ。
ほとんど知らない 人のことでも、 誰かが悪いと言えば 鵜呑みにしたり、 おもしろ半分で乗っかったり、 そうこうしていくうちに、 集団で人を追い詰める 面白さ、 個人 の存在を 叩く快感、 一人の ターゲット に向かって「 こいつなら何を言ったっていいんだ」 といった 流れ ができてしまい、 どんどん増幅して 個人 に対する 罵詈雑言 が止まなくなる。
宮沢賢治の著作に『虔十公園林』という物語がある。
『虔十公園林』 という物語は、 知的障害のある 自然を愛する虔十 が、 村の子供たちに笑われるので声を出して 笑うことができなくなる という 描写 から始まる。
後々、 両親に 生まれてからのたった一つの お願い、「 杉 の 苗木をたくさん植えたい」を 話し、 お兄さんと一緒に 杉の木の 苗木をたくさん植えるのだ。
もちろん 人々に馬鹿にされる。
苦情を言いに来る人もいる。
虔十は チブスで この世を去る。
虔十 の植えた 杉の木の林は、 村人に大事にされ、 子供達の遊び場になり、 やがては この 杉林は、「虔十公園林」 と名付けられ、 その名前を刻んだ碑が立つ ことになる。
子供達から 笑いものにされ続けた 笑えなくなった虔十は、 今で言う 匿名掲示板で 叩かれて 馬鹿にされ、 「 笑うという行為」 ができなくなった 人のように 思えたのだ。
杉の 苗木を 植えては 馬鹿にされ続けた虔十 の姿は、 まさに「 悪目立ちして 叩かれた」 人のように 思えたのだ。
「 どんな悪意も、 人々からの嘲笑も」、 まさに その人の個性や 魅力は変えられなかった、 そして 志も、曲げることはできなかったのだ。
全ての、 匿名掲示板で叩かれて 今苦しんでいる人たちに、 この物語を読んで欲しいと思っている。