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伊勢神宮はなぜ伊勢にあるのか

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令和天皇即位に関連しても、伊勢神宮はその重要なことが示された。伊勢神宮は天皇家ひいては日本国の安泰を守っていただく神を祀る神社であり、主祭神は天照大御神である。

伊勢神宮の創始に当たっては、天照大御神の命を受けた倭姫命(やまとひめのみこと)が二十ケ所を場所選びに巡行し、やっと天照大御神の御心にかなったのが現在ある伊勢の地だと神話にある。この地がどのような理由で天照大御神の御心にかなったのかはわからない。

この令和天皇の伊勢神宮参拝についても、あるテレビは神話による天照大御神を祀る神宮であると報道した。

伊勢神宮のルーツは神話の時代までさかのぼるかもしれないが、現在の地にその神宮が創建されたのは、天武天皇《673年即位》初期の頃であろうから、現在から千三百年ほど以前であるとはいえ、すでに史実の時代である。

その神話と史実の関係を探ってみたい。

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日本国の最高位の神社として祀られてきた伊勢神宮は、それを運営する「斎宮」という天武天皇による大きな組織があった。そしてそのトップは天皇の娘か孫が占いによって定められた。
その女性も「斎宮」と称するので、区別するために、ここでは「斎王」と呼んでおく。斎宮は多くの建物を持ち、そこに仕える人は多い時には五百人もいたらしい。

その斎宮の場所は伊勢神宮から15キロほど離れた櫛田川の河口の大淀《三重県明和町》であり、その広さは約1.4平方キロ《東西2キロ、南北700メートル》の広大な敷地で、現在も発掘が続けられている。

そこで考えたいのは、なぜ斎宮が伊勢神宮からかなり離れたところに置かれていたのか。またそれほど多くの人々が所属していたのかということである。

一応は日本古来の神社の祀る神は、常々は別のところにいて、年に何回かの祭事の時に神社に来臨していただくとされている。しかし斎王は伊勢神宮を祀る女人であって、祀られる神ではない。
斎王は祀る側であるとすれば、斎王は伊勢神宮のそばにいる方が普通ではなかろうか。現在の多くの神社に仕える神官が神社のそばに居を構えることが参考になる。

一方、多くの人数を擁していた斎宮の組織はどのようであったのだろう。まさか五百人もの人々が神事に携わっていたとは思われない。斎宮の、ひいては伊勢神宮のありさまは天皇家の権威を示すために人数を揃えたのか。

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そこで伊勢神宮が伊勢に創建された頃の政治情勢を見てみなければならない。伊勢神宮は、天智天皇側との壬申の乱で大海人皇子(みこ)《後の天武天皇》が勝利を得て、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)で即位して、まもなく創建されたと考えられる。

その天皇家の存在は盤石ではなかったはずである。天武天皇は一族の勢力を拡大し周辺の統一をも目指した。そのために、いくつもの革新的な企てをしたが、その一つが『古事記』編纂によって、各地の説話伝承を、天皇家中心の説話に改竄させ、神話として形作らせた。その出来栄えは素晴らしいものであるが、信憑性には欠ける。しかし、その神話の中には、多くの史実の示唆があるとみなければならない。

その一つが日本武尊(やまとたけるのみこと)の存在である。

日本武尊は景行天皇《伝説的天皇》の命によって、まず九州に赴き、その長(おさ)を謀(はかりごと)で倒し、都へ戻るとすぐに東国へ派遣される。その戦いでは、危機一髪のところを叔母の《斎宮(いつきのみや)》倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられていた草薙剣(くさなぎのつるぎ)《八岐大蛇(やまたのおろち)の体内から見つかった》で難を逃れた。その地は現在、草薙剣が祀られているのが、名古屋郊外の熱田神宮であることからして、濃尾平野であったのだろうか。

日本武尊は琵琶湖の東の伊吹山では白い猪に出会う。濃尾平野や琵琶湖周辺は、地形からして豊かな実りの地であっただろうし、すると当然強大な部族も、いくつもいたにちがいない。その部族が、勢力を増している飛鳥の天皇一族を放っておかないかもしれない。飛鳥の天武朝にとっての北方の脅威である。

最も脅威であったのは、アルプス山脈の向こうに広がる東国であっただろう。東国地方の各地、仙台辺りにまで日本武尊が戦をした伝説が残っている。船で太平洋側を通り、東国へ攻めていき、帰りは陸路で山地を通りながら帰還したらしい伝説がある。

日本武尊は三重の能褒野で白鳥となって天へ去るというロマンチックな最期であるが、はたして日本武尊なる人物はどのような存在だったのか。
ほとんど単身で、日本のあちこちを縦横に駆け巡り、武功を重ねていく姿は真実ではありえないだろう。日本武尊とは、天武天皇一族の武力の象徴のヒーローとして創作されたのかもしれない。

天武朝にとっての脅威は北方のみならず、さらに様子が分からない東国にあった。東国の部族が攻撃してくるとすれば、遠州灘を通って伊勢湾に入ってくるであろう。どこに船をつけるのだろうか。さらに飛鳥に攻め込むとすれば、櫛田川沿いに船を着け、上陸してくるという一つの道が考えられる、ということを考えた天武朝はそこに迎え撃つ準備をしたとは考えられないか。

櫛田川河口大淀の地にある斎宮がそれであろう。

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斎宮は伊勢神宮を祀る神官の役所でもあったが、そこに五百人もの人がいたのは、もう一つの目的としての外敵の攻撃に備える兵士の役割をする人たちではなかったか。斎宮は要塞でもあったのである。

だから伊勢神宮から、やや離れる大淀の地に斎宮は置かれなければならなかったのではないか。斎宮の広大な敷地のいくつもの建築物は周辺に威力を示したであろう。天武天皇が国を運営するに当たり、斎宮を要塞として、国の中心の力の支えとした。
一方、天照大御神を精神的な支えとし、人々の尊崇信仰を広めるために、天照大御神が降臨する社を設置することとし、その場所はどこがいいかと考えた。

飛鳥に都があるのだから、その都や天皇家を守るには飛鳥の地に社を造営するのが当然かもしれないが、むしろ飛鳥の人々は、ほとんど参拝できないような険しい山を越えた現在の地に置かれた。

初代の斎王、大来皇女(おおくのひめみこ)以来、斎王は天皇の娘か孫と定められていたのは、天皇自身がその社に参拝せず、まさにその名代として参拝させたことを示しているのではないか。

天照大御神を祀る神社《伊勢神宮》は飛鳥の都の人々を参拝対象としたものではなく、別の目的で創建されたのではないか。その狙いは周辺部族に向けられていたのではないか。あまり大きくもない飛鳥の天皇一族は、つねに北方、東方の部族の脅威を受けていたに違いない。

そこで政策の一つとして天皇一族の由緒正しさを『古事記』によって、まず示そうとした。『古事記』を読める人は少なかっただろうが、神社に参る人は、はじめは好奇心からでも、やがて細々とした信仰にもなったであろう。

とすれば、その神社の場所は足を踏込みにくい飛鳥の地ではなく、外にひらけた場所がよい。斎宮の地は要塞として大淀から動かせないとすれば、年に二度の斎王の参拝神事の行列のため、大淀からあまり遠くなく、斎王の禊のための川《五十鈴川》があり、そして周辺部族の人が海からも陸からも来られるようなところが選ばれたのだろう。

さらに考えられることは、現在の伊勢神宮の西側は険しい山々であるが、そこを越えた所は、吉野である。吉野の地はかつて天武天皇《大海人皇子》が壬申の乱のときに助けを得て、勝利を得た。

そのような吉野であるから、即位後も吉野にたびたび行っている。吉野には天武天皇に味方をする人々がかなりあったであろう。もし外敵の攻撃にあった時に、山の向こうの吉野勢にたよることもできるであろう。そのようないくつかの条件を満たす所がまさに現在の伊勢神宮の場所である。

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以後、細々と続いていた斎宮制度は室町時代に消滅した。戦後は女性皇族が伊勢神宮祭主をしておられる。伊勢神宮は「お伊勢参り」で江戸時代もにぎわったが、明治時代になって天皇の拠り所として、位置づけられた。天武天皇の意図は千三百年に渡って続いているというべきであろう。

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私は斎宮女御《徽子》をライフワークとして文学の側から見てきたが、時折、その斎宮《斎王》が仕える伊勢神宮のことが頭に浮かんだが、書きまとめてみたいと思っているうちに、病で盲目となり、この文章も文字とは言えないような文字を家族が判読してパソコンに入力してくれた。このような論考は当然すでに出ているであろうが私なりにまとめてみた。ご叱正、ご賛同がいただけたらうれしいのですが。


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