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退院初日の車の中で死ぬ可能性がある、と言われた母のその後

2月が終わりに近づき、いよいよ退院から7か月が経過しようとしている母。

母は昨年心筋梗塞を患いました。

確固たる生死観を持っているために、心筋梗塞が来た時『これで終わるんだ』と思ったそうです。もともと病院勤めだったし自分の身に何が起こっているかわかっていたので、冷や汗をかき一睡もせずのたうちまわり、最期の時を待っていたそうです。ですが、想定外に痛みがおさまらず、一向に死なない。

翌朝の8時になっても痛みはおさまらず、私がこの日のお昼頃ちょうど実家へ到着する予定でしたが、自宅を出る直前に救急退院からの電話で母が救急車で運ばれたと知ります。

痛みに耐えかね、自分でタクシーを呼び近くのクリニックへ行ったそうで、そこから大学病院へ運ばれた次第です。病名は『重症心筋梗塞』。もう助かる可能性は低く、バルーンパンピングという処置を施すくらいしかなかったといいます。

私は救急隊員からの電話で『ご家族の同意が必要だ』と言われ、以前から母の生死観を知っていた身として究極の選択を迫られました。母は延命措置は希望していなかったのです。母の意思を確認しようと電話を代わってもらった時には苦しそうに私の名前を呼ぶだけで、とても『どうして欲しいか?』など聞けません。

姉妹全員で急いで病院に向かう途中『もう間に合わないので処置します』と再度救急隊員から電話があり『お願いします!』というほかありませんでした。『処置』とは何なのか?『延命』になってしまっていないか?自問自答を繰り返しましたが、今できることをしてもらうしかありませんでした。救急隊員の方が目の前にいる死にそうな人間を助けようと必死なのですから。

重症だけに、そこから退院のメドなど立たず心筋梗塞から一気に心不全へとステージが進みます。

6本の管に繋がれ、ICUに3週間と言われた母。

これなら生きている意味がない、今やってることは延命だと思う、死んでもいいから家に帰りたい、こんなことばかり言うので精神安定剤を服用されそうになっていました。

入院はICUに3週間、その後強心剤の点滴が外れるまで4か月と言われました。6月に入院し、10月に退院という入院生活の始まり。肺に水が溜まり、それと薬の量との調整の毎日でしたが、努力でどうにもできない数値との戦い。母は『8月2日に退院するから』と勝手に指定してきました。それでも1か月半、病院にいたわけです。

6本の管も母が外せ、と言ってドンドン外されました。その度に死ぬと言われましたが死なず。退院の日など自分で決められないのでは?と思ったけれど、主治医との直談判で決行。
私は妹と車で迎えに行きましたが、待ってる間、気を失いそうになりました。一番問題だった強心剤の点滴を抜く瞬間です。

帰りの車で亡くなる可能性があると言われたものの、母が外の空気と日を浴び嬉しそうにしているのを見たら、退院する価値はあったと思いました。

退院に際して、主治医の先生は最後『今日はビールで乾杯ですね』と言い、母と乾杯のポーズをとっていました。一緒に来てくれた看護師さんも嬉しそうにしていて、私は医療従事者がどうとかよりも『人としてみんな喜んでくれている』と感じました。

退院が実現したのは、家族と母の意思が完全に全員一致していたこと、病院に毎日通いスタッフの方とも意思疎通できていたことなど、色々な条件が重なっていたのもあります。誰か一人でも医師に異論を唱えていたら出れなかっただろうし、母がそもそも直談判できる人だったのも大きいと思います。

そんな母が退院後、ゆっくりゆっくり元の生活を取り戻しつつ、今に至る。

明日死ぬ、と何度言われたことか。今はお風呂に入ったり、買い物に行ったり、心臓は1/3しか稼働していないけれど、どこか達観したような穏やかな表情で生きています。

こんなハズではなかったと言いますが、これもきっと運命。

ここまで生死観をまとめていて、死を恐れていなくても『死なない時は死なない』。人生は予期せぬ方向へ向かっていくものです。母は冬を乗り越え、そろそろ半年が過ぎます。何かあった時、病院で措置しないでいいように(できることもないので)、自宅で看取る準備も完璧です。

現在公開中の映画『すべてうまくいきますように』。

死んでもいいから退院させてくれ、と願う母の意思を尊重し貫いた、自分の葛藤と重なります。私も毎日『万が一、一瞬で死んでしまってもいい。すべてうまくいきますように』と、まさにこのタイトルのまま、思っていました。今もその思いは同じ。母らしく生き、そしてできれば苦しまないで穏やかな最期を迎えられますように、と祈ってやみません。



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