子供を信じて子供任せるということ

「我が子を信じる」という言葉は昔から聞いたことはある。子供を産む前にも、子供が産まれて赤ん坊だった頃にも。
子供を産む前はなんと浅はかなことか「親が信じずに誰が子供を信じてあげれるというのか、そんなこと当然だろう」と考えていた。“浅はか”という言い方は多少当時の私に失礼かもしれないが、実際に子供を産んでからの感想としては率直に「浅はかだった」と言わざるを得ない。

もちろん私も我が子を信じていないわけではない。
うちの子たちはとても素晴らしくてかわいい自慢の子供たち。親の私がずばり言いますがいいキャラしてるし、とても思いやりがあるし。
叱ることもそりゃあるけど、だいたいは話せばわかってくれる子たちなので基本的には信頼している。

そんな我が子への接し方の難しさを感じるようになったのは、上の子が小学校に入ってしばらくしてから。

私がよく知る“素直で素朴な我が子”とはちょっと違う、まだ私があまり知らない我が子の“学校での顔”を見るようになってから。

厳密に言うと「あまり知らない」わけじゃない。実はまぁまぁ知ってはいた。かつて私も子供だったから、そのときに見ている
“やんちゃで生意気な男子”という存在は。

息子もそんな年になったんだなと感慨深いやらほほえましいやら、成長を嬉しく思う気持ちの反面「こんな態度を友達にもとっているのか?」「こんな調子でクラスの迷惑になっていないか?」「こんな口をきいて友達を傷つけやしないか?」などとよぎり心配す時も出てきた。

実際に友達とトラブルになったりして我が子が相手の子に投げかけた言葉を聞いたときは
「言ってもまだ低学年、きっとこういうやりとりを経て対人関係を学ぶんだ」
と、なんとなく頭ではわかっていてもショックのような怒りのような信じられないような気持ちになった。

我が子の、所謂「年相応のやんちゃさ」を見せつけられてから突きつけられる“我が子を信じる”は、想像以上に重く難易度が高かった。
かつての私に言いたい「親だからこそ、信じきるのが難しい場合もあるんだ」と。よその子なら全然難しくない。我が子だからこそ、難しいんだと。
“かつての”自分に言ってもピンとこないかもしれないけど…

子供にだって「家や家族の前での自分」「学校や友達での前での自分」「この人といるときの自分」と、使い分けることはあるしそれこそが社会性というものだとも思う。
でも子供だからこそ、あくまで大人からみた目線でしかないけど「他社への配慮」だったり「品性」を欠いた言動があったりする。
それも含めて、想定したうえでの「子供を信じて子供自身に任せる」というのは、単に信じて任せるということだけではなくて「場合によって必要があれば親である私達が親として子供のしたことの責任をとる覚悟」を持つことでもあるんだね。
これが相当にずっしり来るよね。。

でも顔を使い分けていると言っても息子の場合まだあまり裏表がないというか、家でも学校でも大きくは違わないだろうなと今のところは思うレベルなんだけど、
娘が今の息子くらいになったときが、息子の比ではないのではないかと予想し勝手に戦々恐々としている。この予想は見事にはずれてほしい。

このことに子育て8年目でやっと気がついたので、私もまだまだ新米だなと思う。(“新米”は図々しいだろうか)

自分自身、親としても「あなたを信じているよ」という姿勢でいたい。
でも私からの「信じているよ」が重荷にはならないようにしたい。
もし私たち親の信頼を裏切るようなことがあったとしても「裏切れる信頼感」がそこにあったんだと思えるような関係性でありたいと思う。
ちょっと何言ってるかわからないかもしれないが、これから子供の成長を見守るあなたならわかるはずだからね私。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?