過去回想日記(22歳:喫煙室にて)
母が入院した。
入院初日の母は303と扉に書かれた病室に荷物を拡げて、ベッドの横に飼い猫の写真を貼って
「ようやくあずましくなった」と写真の愛猫に目を細めていた。
入院中は一日に4,5回、母は病衣にCABINとライターを忍ばせて、点滴スタンドを引っ張って二階の喫煙室に通っていた。
この日の深夜もそうだった。
私も付添いで泊り込みをしていたので、一緒にマルボロとジッポライターをポケットに捩じ込んで母に付いて行った。
深夜の病棟は当たり前に暗くて、リノリウムの床が壁の青色と非常灯の緑の光を反射して水族館みたいだった。
たった一階分降りるだけのエレベーター内の光で目が眩む。
午前1時の喫煙室には当然誰も居らず、電気も消えている。明かりを付けると空気清浄機だけが小さな音を立てていた。
ドア近くの長椅子に並んで座る。
母の煙草にもジッポで火をつけた。
お互い何を話すわけでも無い。静かにぼんやりと定まらない視線で並んで一服するだけ。
コォォォ…と空気清浄機の音が一段階強くなった。
『カチッ』
人ひとり分空けた私の右隣から音がした。
スライド式ライターの着火音だった。
日常的に聞いているので間違いない。
母も音のしたであろう私の隣奥を見つめている。
誰もいない空間を。
私は母のほうを向いた。母と目があった。
「…聞こえた?」母に確認を取られた。
「うん。……火ぐらい点けたげるのにな」
どうぞ、と言って私は音がした場所あたりにジッポの火を向けた。
母と私はもう一本ずつ煙草を喫んで
失礼しました。ごゆっくり、と誰も居ない空間に声を掛けて喫煙室を後にした。
母は末期患者だ。
遠くない未来この病院で最期を迎える事になる。
もしかしたらいつか母も夜中にこっそりここに煙草を吸いに来るかもしれない。
その時誰かが火を付けてくれたらいいなと思った。
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