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憂はしげなコーパス -芸術と人工知能の関係について-

  • preludio

 ハニワというあだ名は、私が考えたものではないけれど、気に入っている。本人がどう感じているかは知らないが、大変に似合っていると思う。いや、似合っている、というより、彼女のどこか冷たい美しさに(女性的というよりかは男性的な美しさに)、このあだ名は温かみを与えてくれている。このいくらか間の抜けた音韻が、ある種のキャラ化の作用を及ぼして、彼女の印象を幾らか滑稽なものにしてくれている。(滑稽なんていう言い方をするのは失礼だろうか? 愛らしいといった方がいいだろうか? 現に埴輪という姓もあろうが……まあ、どうでもいいことだ)
 今私は「冷たい美しさ」と言ったが、これはあくまで彼女の持つ静的な印象に過ぎない。動的な印象、つまりは、単に形態としての印象ではなく生きた一人の人間としての彼女の印象は、必ずしも冷感を与えるものではない。それとは逆と言えるほど対照的でもないが、六尺に垂々とするように思われる埴輪のようにひょろ長い背丈といい(実際にはそれほどの長身ではないことに逆に驚かされる)、男物の衣類を着こなす姿といい、長髪の美男といった具合の顔貌といい、またその顔に常に浮かんだじっとりとした微笑といい……つまり、これら諸々の作り物の感じは、言ってしまえば詐欺師じみていた。
 油断のならない食えない男(女)。彼女に「ハニワ」などという滑稽なあだ名がついていなければ、恐らく学生時代の私は警戒して近づくことすらなかっただろう。

♪♪♪♪

 お盆休みのある日の夜、帰省もせずに無聊を託つ私のスマートフォンに、ハニワからの不穏な着信があった。

「もしもし、私です」
「どちらさま?」
「画面に表示されているでしょう? それとも、私の番号を登録していない……?」
「……なにか用かよ」
 聞くと、どうやら私を明日の同人誌即売会に誘いたいらしい。
「この間、少し気になると言っていたよね? 私が案内してあげよう」
「どうせ荷物持ちだろう」
「あいにく、私のメインは初日で終わり。つまり今日だね。もうヘトヘトだよ」
「なら明日は休みなさい。では」
「待て待て、休むだなんてありえないですよ。他に用事でもあるのかい?」
「……無い、が」
 私は嘘を吐こうかとも思ったが、なんとなくそれは止した。
「決まりだね。お昼前に駅前で。私は先に行っているからね。着いたら教えてください。急ぐ必要はないよ」

 貴重な連休を干物のように過ごすと決めていた私には、炎天下での急な外出は億劫だったが、半ば押し切られる形で承諾してしまった。そういえば、別件でハニワには頼みたいと思っていたことがある。丁度いい、そのための骨折りと思っておこう。予てから私たちの間で話題に挙がっていたことだから、電話の後でその旨簡単にチャットしたら、すぐに「了解」を意味する気味の悪いスタンプだけが返ってきた。

♪♪♪♪

 心なしか埋立地の天日は普通よりも凄烈に思える。人いきれのせいもあろうか、熱気も尋常ではない。これでは本当に干物になってしまいそうだ。

「やあ!」
 男物のカッターシャツを着こなしたその声の主はハニワだった。私は外会場のベンチに腰掛けて彼女を待っていた。
「駅前で待ち合わせと言ったのに! でもおかげで助かりました」
 電話では駅の前で待ち合わせをするということだったが、駅前で待ちぼうけするのも嫌になる暑さだったので、私は即売会の会場にまで来てしまっていた。
「メインは昨日じゃなかったのかよ?」
 彼女は両手両脇にたくさんの荷物を抱えていた。
「ちょっと、ね」
「ちょっと?」
 おどけたような顔をしながら彼女は無言で荷物の半分を私に押し付けようとするので、私も無言でそれを拒んだ。
「ジェントルマンシップがなっていないなあ」
「それならおまえの方が心得ているんじゃないか?」
 騙されたと思った私はこの詐欺師に軽くいじわるを言ってやった。
「……きみ、今すごく失礼なことを言いませんでしたか?」

♪♪♪♪

 結局荷物は私が半分持ってやることにした。半分というのは私としては中々に際どい妥協点だ。恐らくハニワの方が私よりも体力があるから。
 私たちは二人並んで内会場になっている展示場の入口まで人ごみを避けながら歩いた。

「案内してくれるんだろう? エスコートをよろしく頼むよ」
 既に汗まみれで疲労困憊の体の私はわざとふてぶてしくそう言った。
「うーん。とは言っても、何か目的がなければなぁ。きみは何か目当てのものとかないのかい? 興味がある漫画とかさ」
「なんでもいいのか?」
「なんでもいいから言ってごらんなさい」
「そうだな、たとえば、詐欺師が懲らしめられて干物のようになっている漫画、とか」
 私は考えなしにそう言った。
 詐欺被害にでもあったのかい? と言いながらハニワはスマホで何かを調べ始める。私は冗談だと言って止めようとした、が。
「ほら、ありましたよ。干物と詐欺師の同人誌」
「本当か?」
 彼女の示すスマホの画面を私も見る。
 本当だった(想像していたのと少し違う気もしたが)。しかもひとつの同人誌の中に所望した二つの要素が併存している。一粒で二度おいしいと言うわけだ。いや、何もおいしくはないけれど。
「でも出店は明日だね。よし、じゃあ明日も来るかい?」
「まさか。そんなことをしたら今度こそ俺が干物になってしまう」
「きみの干物? なんだか不味そ」

♪♪♪♪

 その後、結局私はただハニワの買い物に付き合うことにした。
 途中、彼女は女性の二人組に声をかけられて「それは何のコスプレですか?」と質問されていた。「これはコスプレではないですよ」とハニワは答えたが、その後なぜか撮影会が始まった。
 また、こんなこともあった。彼女がある成人向けのサークルのブースの前に立って、商品をしげしげと見つめている。私は怪しんで彼女の顔を覗き込んだが眉尻一つ動かさない。
 と、彼女が指を一本立てて「見てもいいですか?」と問うと、売り子の女性が同人誌を一部彼女に手渡しした。横から少し覗いてみると地獄のような景色がそこにはあったので、私が少し距離をおいてそわそわしていると、結局同じものを二部も購入した彼女がこちらに寄ってきた。
「大丈夫ですか? ちょっと顔が赤いようだけれど」
 実に腹の立つ薄ら笑いを浮かべながら、彼女は訊いてきた。
「配慮してくれないか。こういう場所は不慣れなんだ」
 私は仏頂面を作って抗議した。
「ふふ、今の反応、きっとどこかに需要があるね? 君がそんなにピュアだとは」
 私はたぢろいだが、このまま彼女のペースに乗せられるのも癪なので、鼻を鳴らしながら私も言い返す。
「おまえこそ、いい趣味をしているじゃないか」
しかし彼女は涼しい顔をしながら。
「そんな手が通用するような乙女に見えますか?」
 諦めよう。ここはこいつのホームグラウンドだった。

♪♪♪♪

 日暮れはまだ遠い。陽はようよう、なかなかに盛りを超えぬ。
 私たちは外へ出て木陰のベンチに並んで腰を下ろした。得られる涼は気休めで、埋立地にまで降りる蝉声は気障りな不自然を海面に垂れるが、その碧い弓なりはここからは臨めず、磯臭さばかりが五月蠅く香る。
 汗はしとどに、首筋を這って、その不快は肉を覆うと、私の存在は言い知れぬ不愉快の中に囚われる。
 ふとハニワの側を向くと、目が合った。私の疲弊を嗤うような顔がそこにはあったが、この表情が彼女の初期設定である。

「疲れましたか?」
「ごらんのとおり」
「男らしくないなあ」
「今の台詞、甚だ時勢に沿わないぜ」
「おっと失敬」
 と、ハニワは嘯きながらショルダーポーチからスポーツ飲料を取り出して、私に手渡してきた。
「ん?」
「荷物持ちばかりさせては悪いからね。これ、お礼です」
「ぬるいなあ。お礼って言うくらいならせめて冷えたのをくれよ」
「贅沢を言いなさんなって。仕方ないでしょう? 何せ今朝買ったんですから」
「今朝って、やっぱり初めから荷物持ちをさせる魂胆だったんじゃないか」
「きみ、名探偵の素質があるね?」
 言いながらケタケタ笑う彼女を脇目に、私は微温な砂糖水を一気に飲み干した。

♪♪♪♪

 私たちの座る前方に、人の行き交いは絶え間なく、然るにそれは都会の雑踏とは趣を異にして、夏の暑さは彼らの首を垂れずに、反対にそれに抗する彼らの歩武は尚のこと熱く私には思われた。機能に甚だ優れぬ装飾を凝らした衣装の一団がいる。それに従うまた別の一団。かと思えば向かいの側に、荷物夥しいカタツムリのような人々の群れ。ただならぬパッションを帯びて、クールジャパン、いずこへや向かわん。

「どうですか?」
 どこか感心しながらも、半分無心に彼らの様子を眺めていたら、ハニワが唐突に訊ねてきた。
「どう、って、言われても」
「ここにあるのは恐らく、現代に於ける創作的営為のひとつの到達なんです」
「半分がポルノじゃないか」
「まあ、それは、必然的な帰結というものです」
「讃えているのか、貶しているのか、よく分からない言い種だな」
「今のはどっちでもないですよ」
 彼女はいうと先ほどのショルダーバッグから結露に汗かいたこれまた同じブランドのスポーツ飲料を取り出して、口をつけると、ナマケモノのような間の抜けた顔で息を吐きながら脱力した。
「そっちは冷えていそうだな……」
「これはさっき買ったやつですから」
 私の抗議の視線も意に介せずにそう言いのける彼女の様子に、怒るどころか私の方こそ脱力してしまったが、同時に私はあることを思い出しポケットを探った。
 私は中に四角くて軽いクラッカーのようなチップの入ったプラスチックのスケルトンケースを彼女に差し出した。
「そうだこれ、これを忘れてもらっては困る」
 彼女はペットボトルを口につけながら首をかしげている。
「昨夜頼みたいことがあると話しただろう? 俺としては寧ろこっちが本題だよ」
「ああ、これが例の……」
「そう、俺の人生の半分」
 彼女は受け取るとケースの中からフラッシュメモリを取り出し指先で摘まみ上げて、宝石商のするようにそれを片目で見定める仕草をした。
「かわいいね、指の先に載ってしまう人生だなんて」
 その中には、私の今までに書いてきた小説や手記の類のテキストデータが記録されていた。
「指先に乗るどころか、俺の人生の全てを注いだとしてもそれの一厘も満たすことのできない恰も限りのない聖なる杯だよ。図書館丸々だって収めてしまうだろうさ。まあ、この手の話はおまえの方が詳しそうだが」
「へえ……ところでそんな聖杯が、きみがクソ動画と呼んで罵った私の推したちの動画で容易に満たされてしまうという現実を前にしたら、いったいきみはどんな気持ちになるのかな?」
「……きっと、クソみたいな気持ちになるだろうなあ」
 彼女は私の肩を優しくたたくと、なんとも言えないしたり顔で私を見た。
「なんでおまえが勝ち誇っているんだよ」
「そんな風に見えたかな? 謝りますよ。ごめんなさーい」

♪♪♪♪

 ハニワはひとしきり笑ったあと、純水の泡が忽ちに消えていくときのように、笑顔を冷たいまじめな顔に変えた。いつもニタニタしている彼女には似合わぬはずのこんな表情が、まるで落体が下方に向かう運動の如くの、それ自体無目的でありながら恰も意思を感じさせる自然の強制力によって見出されたものであるという感じを与えるのは、彼女の例の静的印象に所以するものであろうか。

「ファイル形式やディレクトリ構成はちゃんと整えていますか? 面倒な単純作業を蒙るのは嫌ですよ」
「全部おまえの言う通りにしたさ」
「ファイルサイズの合計は?」
「だいたい、五メガバイトくらいかな」
 ハニワは素直に感心したといった風に目を見開くと、少しのおどけた感じを取り戻しつつ、言った。
「いっぱい書いたんだね?」
 私は少し気恥ずかしくなって、顔を逸らした。
「そこそこ、な。足りるか?」
「一人分のデータセットとしては十分な量です。後は私がうまくやりますよ」
 そんな彼女の言葉を私は不覚にも頼もしく感じる。
「ところで、その機械学習っていうのにはどのくらい時間がかかるんだ?」
「今は共有のリソースも充実していますから、そんなにはかかりません。そうだなあ、私の都合も併せて考えて、だいたい二週間くらいを見ておいてください」
 私は視線を彼女の側に戻した。彼女の顔に差した凪いだ水面の反映のような、柔らかな、しかし涼やかな面差しを見ていると、不思議と暑さを忘れてくる。私が彼女に異性的魅力を感じないのも、彼女の印象が男性的であるためよりかは、この美が無機物のそれに類しているためなのかもしれない。

「でも意外です。きみが自分の書いたものを機械に学習させてその出力結果を見てみたいと言い出すなんて。きみはこういうのは嫌いだと思っていたのに」
「嫌いさ、憎悪していると言ってもいいくらいだ。だから頼んだんだよ」
「なんですかそれは? 今日日ツンデレなんて流行りませんよ?」
「需要なしか」
「ないない」
 ないない、と言いながら、ハニワは脇の荷物から取り出したキャラモノのうちわで首筋を扇ぎ始めた。
「冗談は置いておいて、正直なところ怖かったんだ。だから、その、実際にどんなものかを知るためにだな」
「敵を知り己を知れば、ですね」
「百戦も臨む気力は俺にはないが、まあ、そういうことだな」
「敵なのは認めるんですね」
「いや、正直それもよくわからない。芸術と科学というものは、両者を立ててみると、なんと言おうか、犬猿とまでも言えないが、とにかく決着のつけがたいある種の二項対立の構造を形作るというのは殆ど歴史的な事実だ。それでもやはり、俺は曲がりにも芸術の側に与する人間として、科学を軽々と敵と呼んでよいのかどうか、相当長い間思いあぐねているんだ。これは歴史が解決してくれるのか、或いは個人的な認識に係る問題なのか……」
「認識なんて持ち出したら決着の着きようもありませんね。まあ、歴史の決着を待つほどきみが悠長でいられるかも分かりませんが」
「まあ、それはその通りだが、そういうおまえはどう考えるんだ?」
「私の見立てはシンプルです。科学と芸術は相容れない。これは確かです。もちろんそれだからと言って、きみが無理にでも科学を仮想敵に仕立てることを積極的に肯定はしないけれどね(つまり、妥協的な折衷という道もここにはあります)。まあ、それでも、この際はっきり、科学と芸術は敵同士であると仮定しましょう。勝つのはもちろん、強い方です。それでは両者のうちより強い方はどちらでしょうか? もちろん科学ですよ。今のところはね」

 ハニワはうちわを扇ぐ手を早めた。彼女の顔の下あたり、私の視界の端っこで、そこに描かれたピンク髪の少女の残像が揺れる。
「そうか、おまえはそう思うのか。しかし、そのどこか含みのある言い方は気になるなあ」
「含みも何も、そのままの意味ですよ。深読みしないでくださいね」
 と、彼女は何か厭らしいものを見る目つきで見てきたので、私は気分を害したが、気を取り直して話をつづけた。
「なら教えてくれ、おまえは今芸術と科学は相容れないと言った。その言は、俺の考える両者の対立構造と同じ類のものか、確かめたい。正直なところ、俺はさっき二項対立とか言ってみたが、それでもどうも時々両者の境が曖昧になってしまうことがあるんだ。おまえの持っているシンプルな見立てというものをもう少し詳しく聞いてみたい」
 彼女は聞くと、ねじれた態勢でベンチの背もたれに頬杖をついて、もう片方の手のうちわで私の側を扇いできた。その顔にはあのじっとりとした微笑が帰ってきていた。
「なんだか今日のきみからは柄にもない必死さを感じるよ。私もちょっと真面目にこたえてあげなくてはいけないようですね」


  • fuga (中)

 ハニワはゆっくりと話し始めた。
「一般に人工知能(ここでは〝科学〟を〝人工知能〟に読み替えて、その前提の上で話を進めますね。要点をきみの関心事に絞るためです)と呼ばれるものが、この世界においてどのような役割を持つか、もっと言えば、この世界の歴史をどのように変えてしまったのか、或いは変えてしまうのか。こうした凡百な期待や恐れに当面する度に、私は心の中で密かに次のような解釈を用意するわけです。つまり、人工知能は歴史のフーガ的性質をカノン的なものに(最終的にかつ決定的に)変質させてしまう(しまった)のだという解釈です。甚だ抽象度の高い解釈ですから、これはあくまで私の持つ考えの外観、結論に至るまでの第一階梯だと思っておいてください」
「本当にそのさわりからシンプルな見解が導けるのだろうね」
 私は訝しげにそう聞いた。
「まあ、気長に待っていてくださいよ。ところできみはさっき〝怖かった〟と言いましたね? それは人工知能に対する言葉と捉えてよいですか?」
「差支えない。が、俺は別に人工知能にだけ恐れを抱いているわけではないよ。我ながら不甲斐ない話だけれどね、科学全般といった方がよいか、或いは科学的な観念全般、と言った方がよいか。しかし、当面の俺の一番の関心事は人工知能にあるというのは確かだから、そう捉えてもらってもとりあえずは問題ない」
「ふんふん。で、率直に聞きますが、何が怖いのですか?」
 私は言葉に窮した。どのような説明の仕方を試みても惨めな感じが漂ってしまうような気がした。しばしば創作者は、己の惨めさにさえも装飾を凝らして立派に芸術的に見せかけようとする。己の弱点を憚りなくさらしてしかもそれで以て他者の共感を得ることにはどこか性的な陶酔があるが、このやり方のなんと破滅と隣り合わせなことか!
 私は意地を張ることを諦めた。
「俺の抱く恐れには色々なグラデーションがあるから、一概にこれだとは言えないよ。一つには本能的なもの、一つには俗的なもの、また一つには、こう、何か、高貴とさえ呼べる思想的なもの……日常の糧に対する不安から、名誉欲に関するもの、それからもっと高次の、生きる理由とか呼ぶもの。俺の抱く恐れは、例えば生存に関する恐れに近いのかもしれないが、こう、端的に言ってしまえば……すべてのものが奪われてしまうかもしれないという恐怖、とでも言おうか。ああ、なんだ、こんな迂遠な言い方はせずに、はじめからそう説明するべきだったな……彼らは俺から芸術を奪ってしまうのではないか。もし俺が書くことを奪われたら、俺は俺である理由を失ってしまうに違いない」
「待ってください、きみがプロの職業作家ならその憂いも幾らか妥当かもしれませんが、腕を捥ぎにくるわけでもないのに、どうして人工知能がきみから芸術を奪うことができるのですか? いや、いいんです、分かっていますよ。私はきみ個人の立場の問題と、芸術それ自体の問題とを分けなければならない。初めにきみの抱く恐れの理由を聞いたのもそのためですから。つまり、問題意識の所存です。しかし、今から私たちが話すのは、歴史の必然、事実が提示するものについての一つの表現にすぎない。きみの問題意識に合致する解が導けるかは請け合えません」
 私はうなずいた。
「もっともなことだ」
「そのことを踏まえて、きみの恐れについてですが、きみはきみの恐れに正当な問題意識の在処を認めていますか?」
「当然、認めている。多分おまえはこのように問いたいに違いない。つまり、俺の抱く問題が俗的な焦慮、例えば、人工知能の存在が自分の文学的立場に不利益を与えるかもしれないとかいう憂いに触発されたもので、そのような非芸術的な態度の隠匿という奸計をめぐらして、思想的な恐れだとかいう傍目高尚な題目を唱えているに過ぎないのではないか、ということを。俺はこのことについて直接は弁解しない。ただ、自分の書いたものが読まれないという状況が実現したとすれば、それは問題だ。もっと正確に言えば、自分の書いたものが読まれないかもしれないという仮定の有り得るという事態が問題なんだ。なぜこれが問題と言えるのか。それは、(はっきりと断言するが)他者の存在を仮定しない物書きなどいるはずがないからだ。色や音を用いるならまだしも、俺たちは言葉を用いている。他者の存在を仮定しない言葉などない。もし仮に、自分のためだけに書く人間が有り得たとしよう、しかし、他者を顧みない芸術が果たして芸術たり得るだろうか? 孤独は芸術の原理だ。他者を夢見ていなければ孤独はあり得ない、別様に言えば、他者が全くいないのなら、孤独だって無用になるだろう。自分のためだけの創作、真の孤独のための創作、なるほど、これはまことに至純な芸術的活動に違いない。しかし、やっていることは同じさ。いくら孤独を志向し、孤独の中に真実を認め、それを求め突き進んでも、そのような意志によって彼もまた他者へと至ろうとしているんだ。孤独の原理は他者だ。そして、他者の存在は、当然書く人間の創作意欲の原理としても働く。このことを理解せずに、文学者の自己顕示を云々する輩はへっぽこだ。まあ、話を戻して、そのような仮定(自分の書いたものが読まれないかもしれないという仮定)があり得る事態とはいったいどのような事態か? これは芸術の存在意義そのものとも直結している。おまえは芸術の存在意義とは何だと思う?」
 ハニワは猶もうちわで私の側を扇ぎながら、頬杖をついていたもう片方の手の人差し指を今度は顎に当てて、思案する仕草をした。
「私は芸術を愛する一個人ですから、そのような個人的な側面からは色々と言えることはありますが、そうでなくても、経済的な面や当然文化的な面からも、如何様にでも言えてしまいそうですね。同様に、芸術が要らないという主張だって、如何様にも言えてしまうでしょう。しかし、きみが訊いているのはこのようなことではありませんね……ごめんなさい、すぐには思いつかないです」
「いや、いいんだ。穏当な答えだ」
 私は彼女からもらったスポーツ飲料をぐっと飲み干した。のどが渇くのは単に暑さのせいだけだろうか。
「俺の考えはこうだ。芸術の存在意義は世界の価値の底上げにある。本来存在しない価値を創造する営為を俺は芸術と呼ぶ。醜や美といった観念は、後から付される価値のラベルだ。単なる存在物なんぞには醜も美もないと考えるのが普通だろう? しかし芸術家はそこから何らかの美的形象を導き出そうと思案するんだ。これはちょうど機械の設計者が、金属の塊に形態を与えて、その形態の付与によってある一つの目的、形態の持ちうる能力の顕現を可能にするやり方と似ている。はじめ、芸術家と機械設計者の頭の中には、イデア、と呼ぶ程純粋で原初的なものではないにしても、何らかそれに類した観念がある。観念とは本来不可能なものだ。距離的無限や時間的永遠、〝完璧〟という二字で修飾されたあらゆる名詞、例を挙げればきりがないが、これらの観念が観念として存在しうるのはそれらが不可能であるからだ。これら不生不滅の観念を形態の持つ〝特徴〟として憑依させれば、そこに何らかの作品なり機械なりが産み落とされる。不可能が実現すると、つまりそれは可能ということになるが、観念が可能の状態として実現しうるとすれば、それは紛れもなく観念的な意味合いにおいてであるはずだ。可能と不可能の再帰的参照関係だ。話がわき道にそれたが、つまり、俺の言わんとしていることはこうだ。芸術は不可能の還元によって世界に価値を齎す、ということだ……ん、どうかしたか?」
 彼女がうちわを扇ぐ手を止めて、どこか曇ったような顔をしたので、何事かと思い私は話を止めた。
「いや、何でもないです。続けてください」
 彼女はまた扇ぎだす。
「そうか……どこまで話したか」
「不可能の還元によって価値を齎す……」
「ああ、そうだ、そうだ……そして、自分の書いたものが読まれないかもしれないという仮定の有り得る事態、ということについてだが、これはいったいどのような事態であるか。端的に言えば、それは今話した〝芸術の意義〟が失われた事態のことだ」
「分からなくなってきたな。きみの今話した〝芸術の意義〟の定義から言って、果たしてそれの消失ときみの問題としている〝事態〟とに、いったいどんな関係があるのですか?」
「そうだな、なんと言おうか。今俺が話したのは芸術についてのひとつの方法論だ、不可能の観念から特徴づけられた形態を導くというある種のプロセスだな。俺はこの考察からひとつの面白い仮説を導いた。つまり、存在することの不可能性という仮説だ。おかしな話だと思われるかもしれないが、俺はまじめだよ。どういうことかというと、存在すること、とは、ひとつの形態を持ちうるということだが、あるひとつの意味づけされた形態が観念の可能を表現し得るものなら、それは俺がさっき話した通り、それ自体の不可能性によってその形態の価値が担保されなければならない。ややこしい言い方になってすまないが、つまり、存在することそれ自体が、不可能と可能の再帰構造の軸となって回転し、可能と不可能が存在を中心に混然一体になって、そのような状況それ自体の不可能性のために、存在することもまた不可能になるという……」
「ふんふん。そんなものは意味のない観念遊びですよ。ふふふ」
「まあ、そう言ってくれるなって。重要なのはここからだ。こんな思考のドツボにはまってから、俺は改めて存在の定義について考え直した。これ以上この線で思考を進めるのは虚無だと俺も思ったからね。俺はさっき、『存在すること、とは、ひとつの形態を持ちうるということ』だと、軽々にそう措定したが、恐らくここに俺の迂闊さがあった。例えばそこらへんに落ちている石ころ、この石ころは(誰かに意図されたものでないにしても)確かに形態を持っている。しかし、この石ころの形態は、いったい何らかの観念の不可能性を担っているだろうか? 以前の俺なら迷わずにノンと答えただろう。しかし、それは迂闊だった。そこらへんの石ころでも、俺の認識を透過することで一つの表現たり得てしまうという事実を俺は見落としていた。さらに言えば、石ころを一つの表現と見做すことができるように、そのように表現する認識でさえ一つの石ころのような事物として見做すことができるということを見落としていたんだ。俺だってフロイトくらい知っている、アンフォルメルの潮流だって、知らないわけではない。しかし、俺が表現に使うのは色でも音でもなく、言葉だった。これが知れず俺の弱点になっていた。例えば、アンフォルメルな文学というものがおまえには有り得ると思うか? 俺には到底あり得るとは思えなかった。アンフォルメルなんてものを、悟性を官能にする言語芸術でやってしまったなら、こんなにも愚かしいことはないだろう? 理性を出し抜いて、文体に人間本然を表すなんてことは、俺には成しえないと思う。よしんば己の理性を瞞着して無理にでもそれを成そうと思っても、結局は嘘寒い狂人の真似事になるのがおちだろうさ。しかし、現実的に可能かどうかという問題と、原理的に可能かどうかという問題は、全くの別物だ。くそ、また話がそれたな」

♪♪♪♪

 私は自分の思考が一向に着地点を見出さないことに苛立ちを覚えながら、手に持っていたペットボトルを口につけた。が、先ほど飲み干してしまっていたためそれは空だった。
 ハニワはそんな私の様子を見ると、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、まだ冷えている自分の分のペットボトルを私に差し出してきた。
「飲みますか?」
 私は彼女の手からそれを奪い取ると一気に飲み干してやった。
「こんなことにいちいち動揺する歳でもない」
「さっきはあんなに顔を赤くしていたくせに……そのペットボトル、最後に飲んだ人が処分してくださいね」
 言いながら彼女は不満げな顔をしたので、私は気分が良くなった。
 私は空になった二つのペットボトルのキャップの部分をマラカスのようにして両手で持ちながら、話をつづけた。

「つまりだ、つまり、芸術は不可能の還元によって世界に価値を齎すものだが、芸術はその方法論については殆ど一切頓着しない、ということだ。しかし、方法論に頓着しないのは、芸術という観念それ自体の逆説的特徴に過ぎない。というのも、芸術それ自体と芸術家は、直接には関係がないからだ。なぜなら、不可能を還元する方法論と、芸術家の営為は、必ずしもイコールで結ばれているというわけではない、いや寧ろ、石ころの例を取ってみるまでもなく、イコールで結ばれていないことの方が多いとさえ言えるからだ。俺はこの事実に目を見張った。もし俺の考えが正しいとしたら? 芸術の原理たる孤独はどうなる? 孤独の原理たる他者はどうなる? はっきり言ってしまえば、そんなものは石ころ同然のゴミになるだろう。芸術と芸術家がイコールでなければ、どうして芸術が孤独の原理たり得るだろうか? 芸術の原理が孤独であり得るのは、芸術と芸術家がイコールで結ばれているときのみだ。それでもやはり、芸術の原理が孤独であると言えたのは、今までの場合、石ころの例なんて、(特に俺のような書く人間にしてみれば)本当にどうでもよい、とるに足らないことだったからだ。ここまで言えば分かるだろう。つまり、人工知能というのは、俺からしたら、本当に不気味な程立派な、よくできた石ころなのさ。人工知能は他者を入用としない。つまり、孤独を原理に持たないわけだ。しかし、人間は通常そのことに想到することはない。よくできた石は、無論よくできた石に見えるだろうし、その出自などに鑑賞者は関心がない。ある古典音楽の傑作が人間の耳に入るときに、それの正体が空気の振動であり、その振動は波の式として表現でき、フーリエ変換によってパラメータの異なるいくつかの正余弦波に分解できる……と言った具合のことをいちいち考え理解することがないのと同じように。逆に、人間は、そのように分解された個々の正余弦波を音楽の一要素だとは認識しない。人間は数兆個の細胞の集合だが、人間を見てあれは数兆個の細胞の塊だと言うことはないし、その細胞のひとつを取って、これは人間であると呼ぶこともない。同じように、芸術と芸術家も認識のレベルでは十分に分かたれているのだから、それこそ石ころの出自に大した関心が向けられないというのは避けられることではない。そうして、俺の書いた小説も、数夥しい石ころたちのなかに、碌々として埋もれていくのさ。他者を必要としない人工知能という名の怪物の作り出す石ころたちのね」
 言い終わると、私は一息ついた。ハニワは扇ぐ手を止めると、うちわで口許を隠すようにしながら、つぶやいた。
「ん、なんとなく、分かったかな」

♪♪♪♪

「疲れただろ、貸せよ」
 私はハニワの手からうちわを受け取ると、今度は私が彼女を扇いでやった。
「いくつか質問をしてもいいですか?」
 彼女は私の送る風に目を細めながらそう訊いてきた。
「もちろん」
「きみは存在の定義にまで疑義を挟んでいたようですが、そこまでしておいて、どうして最後まで孤独と他者の必要性については疑うことをしなかったのですか?」
「こればっかりは論理ではないんだよ。つまりね、俺が必要と感じるから、必要なんだ。なぜなら、もし仮に俺が芸術において、孤独や他者なんてものは全く不要だと、そういう結論を論理的にも感情的にも導き果せたとして、そうなったら俺はもう一切書くということをやめてしまうだろうからなあ」
「なるほど。まあ、きみのその気持ちは理解できますよ。きみの抱く恐れの正体も、問題意識の所存も、なんとなく理解できました。でもね、まだ分からないことがある。特に、どうしてきみは自分の作品をわざわざ機械学習にかけようだなんてことを思いついたのか。これが分からなくなっちゃった。さっきは『敵を知り』だなんてことを言っていましたが、あれは本当ですか?」
「本当だよ。他に何があるというんだ」
「そうですか……」
 彼女は納得がいかないといった風にそうつぶやくと、また例の冷たい無表情を作って心持ち俯いた。

♪♪♪♪

 いったい今は何時ごろだろうか。人の行き交いは未だ衰えることがない。私はうちわを扇ぐ手がだんだんと怠くなってきたので、ついその手を止めた。するとハニワがすかさず文句を垂れてきた。
「私が一体何分扇ぎっぱなしだったと思っているんですか。もうちょっと根性見せてくださいよ!」
「その体力を少し分けてくれればな……」
 私はしぶしぶまた扇ぎだした。彼女の前髪が風に揺れて、汗で額に張り付いた何本かの髪の毛が見え隠れした。わざとらしく怒りをあらわにした彼女の表情がおかしくて、ついつい私は少し笑ってしまった。
「私の顔に何かついていますか?」
「いいや、何でもない、続きを話そうか。まだ俺は、おまえのシンプルな見立てについての説明を受けていない」
 どこか釈然としないといった様子ではあったが、彼女はその顔に凪いだ水面の反映を取り戻すと、話をつづけた。

「きみはさっき私に、芸術の存在意義について質問しましたね? それではお返しです。きみは科学の存在意義はなんだと思いますか?」


  • canone

 ハニワの問いかけを私は訝しんだ。
「科学の存在意義だなんて、おかしな言い回しだな。科学自体が、ひとつの意義の体現じゃないか。そんな科学の〝意義〟をこれ以上分解してみたって不毛だよ。それ以上先は、〝何故に対する答え〟が失われている領域だろう?」
「きみの思考は不用意に沈潜していくから困るなあ」
 言いながら彼女は鼻をフンフン鳴らすので、私は両手に持ったペットボトルをポンポン打ち鳴らして話の続きを催促した。
「もちろん、芸術の場合と違って、科学の存在意義というものについては、それこそ科学それ自体を根拠に実際的な面から色々な言い方ができるでしょう。特に、人工知能というのは、科学の中でも応用科学に分類されますから、初めから何らかの実利をあてにした概念なわけですよ。その意味において、私たちが今しているような人口知能を科学の代表者に立てて云々と議論をする姿勢は、そもそもナンセンスなのかもしれない。このことは承知しておいてくださいね……あと、それうるさいから止めてください」
 私はペットボトルを鳴らす手を止めた。彼女は話をつづける。
「まあ、つまり、きみの言う通り、科学の存在意義なんてものを云々するのはおかしな話なのかもしれない。科学を人工知能と読み替えるのならなおさらですね。でも、こんなことに拘っていたら何も話すことがなく終わってしまいますから、ここはひとつわたしもきみの流儀に倣ってぐっと抽象度の高い言い回しで説明を試みてみますね。つまり、人工知能がどうだとか、数理統計学がどうだとか、生物工学がどうだとか、こういった個別具体の話ではなく、科学という抽象で、しかも、人工知能という概念を十分に包摂したような言い方で説明を試みてみます」
「そうか、なんだか頼もしいな。しかし、俺に倣うまでもなく話が抽象世界をさまよいがちなのはおまえも同じじゃないか……」
 私は彼女の最初にしたフーガとカノンの喩えを思い出した。
「ふんふん。相変わらず減らず口を叩きますね。でも、まあいいでしょう。とにかく、そのようなやり方で、私は科学の存在意義をこのように表します。科学は本来存在しないはずの〝価値〟と呼ばれる虚像の表現を行うために存在している、と」
「価値の虚像の表現?」
「はいそうです。不思議に思いますか? あなたは例えば、芸術の本領は表現にあり、科学の本領は発見にあると、そう思っているのではないですか? でも、あなただって、芸術家と機械設計者を同列に語ったじゃありませんか。その例が示している通り、科学の本領もまた、表現することにあるのですよ。何も不思議なことではありません。科学はたいてい、何らかの事象の言語的表現ですから。それに、わたしが問題にしたいのはこのことではありません。もっと重要なのはもう一方の帰結です。つまり、〝発見〟なんてものは無いということです。世の中で言われているあらゆる〝発見〟は、何らかの〝表現〟に過ぎない(無論これも事実に対するひとつの表現にすぎませんがね)。このことは、私たち人間があらゆるものを事物それ自体ではなく事物同士の関係性でしか捉えることができないということを考えてみれば、尚のこと妥当に思われてくるはずです(そう言えば、きみは文学と相容れ難い構造主義が嫌いだったね?)。例えば、物理学では立てた仮説に対して実証を行うことでそれを定説にしますが、実証の確からしさを担うメトロロジという考えそのものが、事物同士の関係性でしか表すことのできない性質のものですからね。あらゆるものの確からしさは、それらを取り巻く事物との関係性によってでしか担保されない。しかし、関係性とは果たして? それこそ、表現に過ぎないでしょう?」
「なるほど、科学がなにものかの表現であることには同意しよう、しかし……存在しない価値の虚像? これはいったいどういうわけだ」
「これはひとつの再帰表現ですよ。つまり、科学自体が価値の体現であって、事実の表現に過ぎない虚像とは即ち何らかの表現物なわけですから……はあ、価値なんて言葉を使うと、一気に話がうさん臭くなりますね。わたし嫌いなんですよ、価値って言葉が。科学は価値の虚像の表現であって、それは再帰的に、価値は科学によって表現された虚像であるとも言えるわけですが、あらゆる表現されたものの中で、価値という観念が最も卑しいものだとわたしは思います(表現物に、或いは表現することそのものに、何か別な意味づけを行おうとするのは卑しいことですよね?)。だからね、わたしはきみの語る芸術の存在意義に、価値なんて語彙が出てきたのを聞いて、ちょっとがっかりしちゃったんです。もしかすると君は、芸術の原理が他者であり孤独であると看破したその時に、同じく他者を原理に持つ価値という言葉を無意識に引き寄せて、それと芸術とを混同させてしまったのではないですか? しかし、価値が孤独を原理に持っていないことに少しでも思い至っていたなら、芸術の存在意義を言い表すのに〝価値〟なんて言葉を軽々に扱うことを躊躇ったはずでしょうに」
「それだから、おまえは科学の存在意義の説明にわざわざ分かりにくい再帰表現とやらを用いたわけか……」
「それだけじゃありません。もし芸術の立場で〝価値〟なんて言葉をまともに使ってしまったら、それこそ芸術の立つ瀬はなくなってしまいます。分かりますか、(それが無意識的にせよ)価値という言葉が前提におかれた状態では、芸術と科学の共生という理想は最終的には破局してしまう、と、わたしは考えるわけです。まあ、これがわたしのシンプルな見解なわけですが、少し急ぎすぎたかな? もっと説明が必要そうですね」

♪♪♪♪

 ハニワは立ち上がると、私に手を差し出してきた。
「つづきは歩きながら話しましょう。せっかく来たんですから、座りっぱなしじゃもったいないです」
 私は嫌そうな顔をしてこたえたが、彼女に無理やり手を引かれ立たされてしまった。
「もう十分買ったじゃないか」
「歩いて回るだけで楽しいんですよ」

 即売会は陽の落ちきらぬ内に閉会すると聞いていたから、かんかん照りの下にいても、やや傾いできた陽に心なしか祭りの終わりの寂しさが陰りだした。
 私は後れを取らぬようハニワの横にぴったりとついて歩く。
 引いた汗がまた滲みだす。

「ひとつ聞いていいか?」
「なんですか」
「おまえはさっき、俺が芸術という観念と価値という言葉を同時に用いたことの迂闊さを指摘したな? これについてはまだおまえの主張を甘んじて受け入れてやる気持ちになれた。しかしだ、俺にはまだ分からない。おまえの言うところの、科学という観念と、価値という言葉の関係がいまいちピンとこないんだよ。俺の考え方とは少し違うような気がするんだ」
「ふんふん。それについてなら、きみがさっき人工知能への恐れについて語ったとき、十分に説明していたじゃないですか。ええと、その、芸術と違い人工知能は孤独を原理に持たない、って」
「ただ、俺は人工知能は他者の原理も持たないと言ったはずだ。俺は人工知能を自立した一個の存在として認識しているが、そこがおまえの考えとの相違だろうか?」
「いえいえ、確かに今のは良い指摘ですが、違いますよ。わたしが言いたいのはそういう話ではありません。確かに価値という言葉は他者がいなければ成り立たない。これは、原理というよりは寧ろ公理と呼ぶべきでしょうか? いや、こんな話はどうだっていいんだ。わたしはね、別に科学という観念と価値という言葉の共通性についてあれこれ述べようとしているんじゃないです(ああややこしい!)。価値という言葉はね、とにかく科学という観念が要請するひとつの悪癖のようなもので、別にこれ自体科学と何ら並列すべきものであるはずはないんです」
「ええと……いや、おかしいぞ。科学自体が価値の体現であるというさっきの話はどうなるんだ?」
「だからこれこそ、きみもさっき言っていた、実際的な不可能と原理的な不可能の差異ですよ。科学自体が価値の体現でないような場合だって当然仮定できるでしょう。しかし、そんなものはファンタジーです。ファンタジーついでにちょっと今日買った漫画の話をしましょうか」

♪♪♪♪

 ハニワはあたりを見回すと、人のまばらな方へと歩き出した。その先には広場の上り階段があって、私たちはそれを幾段か登ると、もと来た方を振り返った。外会場の人いきれと、屋内会場のある展示場のモダンな造形が、ここからはなんとか一望できた。

「わたしがちょっと前に、この場所が現代に於ける創作的営為のひとつの到達だと言ったのを覚えていますか?」
「覚えているよ」
「きみはその後で、半分がポルノだと言って冷やかしていましたね?」
「別に冷やかしたつもりはないが、まあ、そんな風なことは確かに言ったな」
「ここでひとつ質問ですが、きみはポルノと芸術は同じだと思いますか?」
「さあ、どうだろうか。どうしておまえはポルノを一括りにしてそんな大雑把な質問をするんだ?」
「分かりました、じゃあ、もっと個別具体的に」
 言うと彼女は抱えていた荷物から幾つかの同人誌を取り出して私に手渡してきた。
「こちらの本では少女が輪姦されています。そして、こちらの本では丈夫が拷問されている。どちらも極めて煽情的に描かれていますね? これらの本は、きみにとって芸術と呼べますか?」
 私は渡されたそれらの本をぺらぺらと捲った。
「どうですか? 世界の価値の底上げはされましたか?」
「これは何の罰ゲームだ?」
「気に入った方をきみにあげますよ」
「俺を試みるな」
 私は二冊とも彼女に返しながら、今しがたの彼女の問いかけに何らの解答も見出せない自分がいることを認めざるを得なかった。
「冗談はこれくらいにして……で、どうですか? これらは芸術ですか? イエス、オア、ノー?」
「なんと言おうか、その……」
 私は口ごもった。
「いいんですよ。ごめんなさい。今のはちょっとしたいじわるです」
 彼女は同人誌をしまうと、そのまま階段に腰を下ろした。私もそれに倣った。
「ポルノはほんの一例で、わたしが問いたいのはこういうことです。つまり、美術に対する工芸の立場。もっと言えば、合目的的な芸術の意味についてですね。わたしはきみの言った〝価値〟という言葉に、所謂〝機能美〟だとか、〝実用性〟だとかいう含みを汲んだわけです。もちろん、きみは直接的にそのことを意識したわけではないと思うけれど、やはりどこかにそういう無意識の傾向があることをわたしは感じたんです。きみが語った自作を機械学習にかけようとする理由だって、わたしは信じていない。きみはそのような価値付けの判断によって、或いは人工知能の存在それ自体を肯おうとしているのではないですか(つまり、それによって判断できる人工知能の無価値性にかけて、ね。これは悪手というより、汚い手です)? なぜなら、きみはきみの語る芸術に纏わるある種のポルノ的な価値観……ポルノに与えられた要請は、〝役に立つか立たないか〟、という正しく工芸的な要請に違いありませんから」
「確かにそうかもしれないが……あまりはしたない言い方をするなよ」
 私は努めて冷静を装いながら、そのために、わざとそう嘯いた。
「はしたないだなんてまさか! それと、念のため言い添えておきますが、わたしは決してポルノを敵視しているというわけではありませんからね」
「それはそうだろうな」
 これについては私は至極素直にそう答えた。
「今の返しには大いに誤解の余地がありますね……」
 私にはちょっと彼女の返答の意味が分からなかった。

♪♪♪♪

 ハニワはそのあと、少しいじけたように広場の方を眺めていた。彼女のこんな様子は珍しいので、私はそのきれいな横顔をまじまじと観察した。どうしたことか、そこに〝工芸的要請〟がないことに、私は不思議を感じるべきか、不憫を感じるべきか……
 と、彼女が漸く口を開いた。
「……話を戻しますとね、価値がどうのとか、役に立つ立たないだとかを言い出すと、全てポルノ的になるんですよ。工芸ばかりが持て囃されて、美術が等閑にされると、そうなるんです。ねえ、きみは、芸術は何かの役に立つべきだと思いますか?」
「必ずしもそうだとは思わないよ。少なくとも、芸術家は決して自分の作品を何かの役に立てようと企図して創作するわけではない。いや、そればかりか、殆どある種の破壊衝動とさえ呼べる野蛮な動機に駆られて創作をすることだってあるんだ」
「それを聞いて少し安心しました。芸術が良い動機によってもたらされた物でなければならない、それで以って(物質的にも感情的にも)何かの役に立たなければならない、というのは、工業文明に毒されたプラグマティックな芸術観ですからね。芸術なんて刹那的、薬物的な物で良いんです。どんなに感動的な作品を目にしても、次の日にはその感動さえ忘れていることの殆どでしょう? 確かに、一生の内に一度か二度かは、全人生に渡って影響を及ぼしてしまうような作品に脅かされることもあるかもしれないですが、それは薬害的後遺症とでも呼ぶべきもので、役に立つ立たないとはまた別の次元に属する現象ですからね」
「なるほど、そうか、それでおまえはこの場所を現代の創作の到達と言うんだな? つまり、良きにつけ悪しきにつけ、そのような工業的な文明の中に生じた現象だと」
「はい、そして、この場所にもやはり孤独が存在しています。もっとも、これはきみのいう孤独とは少し違うかもしれないけれどね。ここにあるのは、工業文明の産んだ孤独であって、つまり、高度な科学が集団から細分化した個々人ですよ(小さな物語の集合と呼んだ方がきみには分かりやすいかな?)。そしてわたしはまた、このような個人の氾濫は人間の価値を陳腐化させてしまいかねないという危惧を持っています。多様性という体のいい言葉はあるけれど、時としてこの言葉は単なる思慮不足への免罪符にもなりかねませんからね。まあ、これはまた別の話です。ただ、確かに、集団の細分化、個人の弱体化は、きみの憂うる人工知能による芸術の存在意義の消失ということを助長してしまうかもしれませんね」
「しかし、なら、おまえはどうするべきだと思う? 芸術家や、芸術の鑑賞者は?」
「さあ、それは分かりません。ただ、もしこのまま科学バンザイでいくなら、プラグマティックな芸術と云うのは何れ人間の手から離れる定めにあるでしょう(科学と芸術の融合なんて潮流もあるみたいですが、やはりわたしは懐疑的です)。また同断に、単に善意のみで芸術が成り立つなら、芸術はやはり人間の手から離れるでしょう。芸術の例ばかりでなくても、多くの伝統が科学の発展で淘汰されてきたのは、そこに善悪を判断する倫理が働いたからではなく、単に要不要の論理が働いたからであるというのは明白です。その流れを食い止めようとする場合にこそ、私たちは善悪の倫理を働かせるのでしょうが、しかし、善悪の倫理が要不要の論理に敵うとはわたしには到底思えない。もちろん一部の人間は抗うには抗うでしょうが、やはり科学には敵わないと思います(なぜなら要不要の論理は生物進化額に似た謂わば自然現象ですからね)。そして、それでももし人間が芸術を護持するなら結局は権威主義に縋るしかないとも思います(権威主義と倫理は全く矛盾しませんしね)。それも私たちが普通に考えるような権威主義ではなくて、もっともっと零細な権威主義です。つまり、人工知能ではなくて人間の手により生み出されたのだ、と云うくらいの、そんな権威主義です。恐らく、今私たちがいる、こういった同人誌即売会のような場所が、そういった権威主義による庇護の下で最後の創作の寄る辺になるでしょうね……」
「随分と悲観的じゃないか」
「悲観? 別に、わたしは悲観しているわけではありませんよ。わたしはどんな未来が訪れたって、自分の面白がれるものがあればそれでいい。わたしは何かを創る人間ではありませんから、その点では楽観的ですよ。それに、わたしはただ事物に即して物事を言っているだけです。そんなわたしの言葉が悲観的に聞こえるなら、それはそのままきみ自身の状態を表しているのではないですか?」
 私は図星を突かれたようで、少しきまり悪く感じた。私はちょっと心が苦しくなって、目の前のこの女に、少しく弱音を漏らしたい気持ちになった。
「正直なことを言うと、俺はおまえの口から、その、もっと肯定的なことが聞けると期待したんだ……」
「ふふ、だから最初に言ったじゃないですか。きみの問題意識に合致する解が導けるかは請け合えない、って」
「ああ、確かにそうだったな。だったらこの際、おまえの考えを篤と聞かせてくれよ。俺にとって悲観的に聞こえるかどうかはどうだっていい。いや、俺にだって考える力はあるんだ」
「いいですよ、なんだかかわいそうに思えてきちゃったから、最後まで付き合いますよ」

♪♪♪♪

 閉会まで残り少ないことを告げるアナウンスが鳴った。
「帰りながら話しますか」
「もういいのか?」
「今日はもう十分なので。本当は最終日の明日が一番忙しいんです」
 こいつの言葉はどこまで信用してよいのか。
「しかし、帰りながら話すといっても、駅でお別れじゃないか」
「何を言っているんですか。わたしの家まで着いて来てくださいよ」
 ハニワはあっけらかんとそう言った。
「いや、それは」
「荷物はどうするんですか!」
「おまえこそどうするつもりだったんだよ」
「わたしは初めからきみに半分持ってもらうつもりだったけどな」
「おい……」
「大丈夫、わたしの家までそんなに離れていないから」

♪♪♪♪

 陽は傾いだとは言えまだ空は明るい。帰宅のラッシュを逸れたためか、駅はまだそれほど混雑はしていない。私の家とは反対行きの列車に乗ると、私たちは運よく空席に恵まれた。

「それにしても疲れたな……」
「わたしはまだまだいけますよ」
 列車が進行する。向かい側の車窓から西日が射して私たちは一緒に目を細めた。
「で、他にどんな話がしたいんですか?」
「そうだな、さっき駅までの道を歩きながらちょっと考えたんだが、やはり、おまえの言う芸術と科学が相容れないというのがまだ少し引っかかる。言わんとしていることは分かるが……」
「そうですね、歴史的な話をすれば、絵画と写真の例は格別、科学と芸術は一見すると手と手を取り合っているようにも見えます。カメラの登場が当時の画家たちに与えた影響は計り知れないとはいえ、写真や映画、他にも新しい芸術分野を切り拓きましたからね。しかしそれは、歴史の歩みが科学から芸術や思想へ、そして政治へ、といった具合に、少しずつ主題を変えながら繰り返すフーガ的な響きを持っていたからです。恐らくは、産業革命の興りから、ダーウィニズムの流行くらいまでは、一応はそういったフーガ的歴史構造は保たれていた。しかしそのあとは? だんだんと科学のピッチばかりが上がり調子になっていって、歴史の進行はとことん調子外れなものになってしまったんです。種の起源がダーウィニズムを涵養するのにだってある程度の期間を要したはずです。しかし、現代は毎日種の起源が刊行されているような状態じゃないですか(毎日がメリークリスマスってやつです!)? 現代には既に歴史と呼べるような因果論的な人間の営みは無くなったのではないかとわたしは思うんですよ。つまり、今ある歴史は、思いもよらない科学技術の進歩によって齎された、突発的な事実の羅列に過ぎないのだと。今のは歴史の話ですが、そのまま同じことが芸術にも言えるのではないですか」
「確かにそうかもしれないが、しかしそれでは予想というものが全く困難じゃないか? つまり、科学と芸術が相容れるか否かは、まったくその時々の科学の提示する状況によるということになるじゃないか」
「ええ、確かにそうですね。しかし、人工知能について言えば、また話は変わってきます。いや、人工知能だけではありません。例えば、人工知能のような孤独を持たない存在が創作を行う場合は現に起こっていますが、そのような〝孤独を持たない〟という状態が、人間の内には未来永劫あり得ないと、本当にそう言えますか?」
「どういうことだ?」
「これについてはあんまり話過ぎても荒唐無稽なSFになるだけなので深入りはしませんが、人類の科学の進歩が、例えば永遠の命を得たとして、そのようなことを可能にする最も手っ取り早い手段が、恐らくは孤独を手放すということなのだろうとわたしは空想しているんです。それに、これは全く現実味のない話ではない。今までの歴史的事実を見ても、科学技術は我々の孤独を確実に希薄化してきましたからね」

♪♪♪♪

 駅を降りるとハニワの家はすぐそこにある。オートロックの女性専用アパートに入ると、まるで自分の身体がひとつの大きな異物のように思えてきて居心地が悪いことこの上ない。
 彼女の住むワンルームは、壁一面に張られたアニメポスターが印象的なのはそうだが、机の上に平置きされたラックサーバーが唸りをあげているのに真っ先に目が行く。
「熱がすごいから、夏はクーラーを止められないんですよ」
「なんだか猫みたいだな」
「実際、猫みたいに気まぐれなやつです」

 私は床に荷物をおろすと、文字通り肩の荷が下りたことに安心して脱力してしまった。
 ご苦労様です、とハニワが麦茶を出してくれた。
「あまり長居はしないよ」
「あら、残念です」
「あれでやるのか?」
 私は例のサーバーPCを見ながら訊いた。
「はい、この間ビデオカードを新調したんです。最近仮想通貨のせいで値上がりしているんですけどね。そもそもブロックチェーンとかいう技術の何て不毛なことか。わたしはこの技術を人類最悪の発明のひとつであると非難しますよ……」
 私はこのまま興味のない話をつづけられても困るので、「そう」、とだけそっけなく生返事をした。彼女は不服そうにムスッとした。

 私は麦茶に口をつけた。少しだけコーヒーの風味がする。
「なあ、こんなことを訊くのは今さらかもしれないが、おまえは人工知能のことをどう思っているんだ?」
「本当に今さらですね」
 ハニワはクスリと笑うとつづけた。
「正直なところ、どう思うというのでもないです。近頃、描画AIや言語処理AIが話題ですが、あれだって、今のところは一時的な流行りの域を出ないでしょう。こういった流行に対するわたしの技術的な興味というのは推して知るべしです」
「技術的ではない側からの興味ならあるといった風な言い方だが?」
「うーん。むずかしいな。強いて言うなら、さっきも話した科学と表現の関係で、AIによって生み出される創作物についてへの興味ですがね……」
「ほう」
「これは前提ですが、プログラムされたものには本質的に人間に理解できないものはないんです。なぜなら、それは人の手によって書かれるものだし、論理の体系は要素でみれば極めて単調ですから。それに、究極はゼロとイチにまで分解できてしまう。そのゼロとイチの上に表された創作物とは何であるか、というのがわたしの興味です。先ほど言ったように、プログラムされたものは本質的に人間に理解可能なものです。一方で、人間は他者の思考のあり方を、完全に理解するということはできない。必ずどこかに滑り落ちてしまうものがある。人間が作る創作物に関しても同様に。ですが、人工知能が作るものはどうですか? 完全に理解可能な論理体系から生み出された創作物は完全に理解可能でしょうか? 勿論、人工知能は多くの場合、人間の意識の介入を受けます。文章を作成する人工知能は、事前に人間の書いた膨大な文章を学習しています。そのように学習され蓄えられたコーパスは、一定の規則に従って再構成され恰も全く新しい文章として生まれ変わる。しかし、この一度コーパスとして蓄えられ、一定の規則によって再構成されるプロセスを、私たちは芸術的鑑賞眼の下にどのように解釈するべきでしょうか?」
「どう解釈するというのでもないじゃないか、そんなものは。元は人の書いたものが、単なる現象として分解されて、そしてまた単なる現象同士として繋ぎ合わされているだけのことじゃないか」
「確かにその通りです。そして、その分解と繋ぎ合わせの仕方が、極度の〝それらしさ〟で以て行われつつあるのが現代です。そう考えてみたとき、先ほどのわたしの興味、ゼロとイチの上に表された創作物とは何であるかという興味は、どれほど重要なものになるか。恐らく、多くの人にとって然して重要なことにはならないでしょう。その場合重要になるのは、そのようにして生み出された文章の単なる言語としての精度と、その言葉の示す意味内容の方でしょうから(これは当たり前のことですが、この点ではわたしときみの考えは一致していますね? つまり、漫画に描かれたものをただのインクの染みであるとわたしは認識しないという意味においてです)。こうなればもうほとんど、人間が書く場合と事実上変わらなくなる。これがどういうことかわかりますか?」
 私は無言でつづきを促した。
「人が書き、機械が覚えるという一方通行の参照関係は過去のものになって、終わりのない再起関係が回り始める。人と人、人と機械、機械と機械。実際的な差異はなくなって、より速いもの、当然機械がその再帰構造の主役になるんです。こうなると、あらゆる物事(場合によっては人の手によるものでさえも)が、名目通り純然たる〝石ころ的表現〟に過ぎなくなるんです。意味があるのかないのかもわからない無限回帰の檻。この檻は単なるチャットボット上のつまらない会話に留まらず、恐らくは私たちの生活すべてを覆うことになるんです。その時に訪れる歴史の構造を、わたしはカノン的歴史構造と一応の命名をしていますが(もしかするとこれはちょっとうまくないかな?)、カノンというより、もうこれはほとんどクリスマスのキャロルを際限なくループし続ける壊れたレコードのようなものかもしれませんね……ごめんなさい、やっぱりわたしの言葉はきみを怖がらせるばかりかもしれない」

 ハニワは言い終わると、どこか悲しげな笑みを作って私を見た。
 私は気にするなと言った。
「ですが、そうなったときに、あなたたち芸術をする人の立場がどのようなものになっているのか、そこまではやっぱりちょっと想像ができません」
「……現実的に考えれば、そんな時代に芸術家たちの居場所はないのだと思う。しかし、それが不幸なことかは分からない。正直なところ、もし俺が全く書く理由を奪われたとして、そのときに本当に俺は絶望するかどうか? (こんな言い方は変だが)俺はそのことについて自信が持てなくなるときがあるんだ。実のところ、このことが一番恐ろしいんだ。ああ、結局はなるようになれとしか言えないことが辛いところだなあ!」
「でも、理想というものはあるでしょう?」
「勿論あるよ。言葉による芸術はね、(おまえは矛盾に思うかもしれないが)言葉によって言葉では届き得ない領域を見出したときに、初めて尊さを知る、侵し難い神聖さを知るんだ。その聖域を人工知能なんぞに侵せるものか! もちろんこれは俺の空元気だよ。根性論さ。本当にそうだ。もし俺は、自分の孤独を投げうつことで永遠の命を得るような時代が本当に訪れたとしても、そうなったら俺はその永遠を前にして自殺してやろうとさえ思う。自分が書くことを捨ててしまう前に、無理にでもそうしてやりたいと思っている。これが俺の理想だよ。馬鹿なことだと思うかい? でも、理屈じゃないんだ、理屈じゃないんだよ。もうこればっかりは、意地を張り通すしかないんだ。俺が一人の孤独な人間である以上はね。それに、こんな人間がひとりでもいたら、きっと芸術は死なないよ。そう思うだろう?」
「ふふ。そこまで吹っ切れたら、きっと何も怖いものはありませんね」

♪♪♪♪

 後日、ハニワから郵便が届いた。
 こんなことは珍しいので、何事かと思い包みを開けてみると、例の干物の同人誌と、便箋が一枚。その中には一言だけ。
「誰かに似ているね?」
 うるさいなぁ。

fine


こんな | こんな | コンナ | 連体詞 | | | コンナ | コンナ | 和 | こんな | コンナ
人間 | 人間 | ニンゲン | 名詞-普通名詞-一般 | | | ニンゲン | ニンゲン | 漢 | 人間 | ニンゲン
が | が | ガ | 助詞-格助詞 | | | ガ | ガ | 和 | が | ガ
ひとり | 一人 | ヒトリ | 名詞-普通名詞-副詞可能 | | | ヒトリ | ヒトリ | 和 | ひとり | ヒトリ
で | で | デ | 助詞-格助詞 | | | デ | デ | 和 | で | デ
も | も | モ | 助詞-係助詞 | | | モ | モ | 和 | も | モ
い | 居る | イル | 動詞-非自立可能 | 上一段-ア行 | 連用形-一般 | イ | イ | 和 | いる | イル
たら | た | タ | 助動詞 | 助動詞-タ | 仮定形-一般 | タラ | タラ | 和 | た | タ
、 | 、 | | 補助記号-読点 | | | | | 記号 | 、 |
きっと | 急度 | キット | 副詞 | | | キット | キット | 和 | きっと | キット
芸術 | 芸術 | ゲイジュツ | 名詞-普通名詞-一般 | | | ゲージュツ | ゲイジュツ | 漢 | 芸術 | ゲイジュツ
は | は | ハ | 助詞-係助詞 | | | ワ | ハ | 和 | は | ハ
死な | 死ぬ | シヌ | 動詞-一般 | 五段-ナ行 | 未然形-一般 | シナ | シナ | 和 | 死ぬ | シヌ
ない | ない | ナイ | 助動詞 | 助動詞-ナイ | 終止形-一般 | ナイ | ナイ | 和 | ない | ナイ
よ | よ | ヨ | 助詞-終助詞 | | | ヨ | ヨ | 和 | よ | ヨ
。 | 。 | | 補助記号-句点 | | | | | 記号 | 。 |


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