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ベイトソン・タルコフスキー・落合陽一

ようやく、ハンナ・アレントの『人間の条件』を読み終えたので、次はグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学へ』を読み始めようと思い自宅を出たのだが、文庫本を鞄に入れるのを忘れた。昼休み、読む本がなく手持ち無沙汰だったので、しかたなくモリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへー世界の再魔術化』をキンドルで購入。落合陽一が大きな影響を受けたこの本、さっそく読み始める。

観察者である自己を観察対象である世界から引きはがし、あたかも世界を制御可能な機械のように支配しようとするデカルト的な世界観から、より有機的で、よりホリスティックな世界観への移行を提唱するのではないか、という予感がするのだが、また全体の10%しか読んでいないので、何とも言えない。

そんな中、タルコフスキーの『ノスタルジア』が4Kで復活する、というニュースを入手。1月26日から、東京だと渋谷の文化村、ル・シネマにて。文化村はオーチャードホールを除いて長期改装中とのことで、ル・シネマも以前とは違う場所、おそらく宮益坂の方?に移転している様子。注意が必要です。

ここ一連の読書を通して考えること。単なる趣味や、知的好奇心のために読書をしているわけではない。願わくば、自分の軸の延長線上に食い扶持を見出したい、ということがその根本にある。自分の軸とは何か?それは、様々なテクノロジーが発達する中で、人間の定義、あるいは人間と世界との関わり方をアップデートし、その更新をプロトタイプに落とし込む、さらにそれを何らかのビジネスとして展開したい、ということにある(気がする)。だからこそ、Pythonを勉強し、あるいはアレントやベイトソンを読む。さらにオブジェクト指向オントロジーということで、グレアム・ハーマンにも興味がわいてきている。その先に、落合陽一の言うデジタル・ネイチャーもあるのだろう。そしてそこには、それこそ『ノスタルジア』ではないが、何らかの救済や恢復がなければならない。

個人を、あるいは世界をささやかでも良いからいかに救済しうるのか、という問題は非常に重要。今年最初のWeekly Ochiaiのゲストが、安宅和人教授だった。その中で安宅教授が、積み木をなでながら愛でることの重要性をポツリポツリとつぶやいていた。

愛でること、あるいはその手触りを感じること、というのが、現代において最も求められていることなのかもしれない。

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