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美味いものはうまい

三ヶ日に買ったタニタの携帯連動型体重計がすこぶる便利。毎日の体重や体脂肪率が、体重を測っただけで自動的に携帯のアプリに記録され、グラフにまでしてくれる。非常に使える。

昨年末くらいから食生活を変えたので、その効果を知ることができるというのも良い。今日の夕食はサラダ。スーパーのサラダ二袋にサーモンとタコのぶつ切りとミックスナッツと大葉を入れ、塩と胡椒とオリーブオイルで和えただけのシンプルなもの。それでもうまい。

ワインは成城石井で買ったChateau la Verriere。そんなに高くないわりにそれなりに深みがあり、こちらもやはり良い。

美味いメシということで思い出すのは、なんと言っても学生時代に一ヶ月間、語学留学で暮らしたリオン。バゲットからサラダから、口にするものすべてが異常なレベルのうまさだった。特に忘れられないのが、キールとタルタルステーキ。水の硬さが違うのか、日本のバーでは決して味わうことができないあのキールの切れ味、そしてパリのそれですら生臭く感じてしまうほど新鮮なタルタルステーキの、あの奥深さ。アパルトマンでひとり、そこはかとない寂しさを感じながらも口にするサラダとカフェオレがやたらとうまく、これは何だかまいったな、と思ったのを覚えている。

一方、約一年間住んでいたパリで忘れられない味といえば、アフリカ料理のクスクス。レストランで食べたクスクスも、あるいは自宅で作っていたクスクスも、どちらもなんとも美味しくて、自分にとってパリの思い出の味というと、まっ先に思い浮かぶのがとにかくクスクス。スーパーで買った安いクスクスをお湯でもどし、電子レンジで温めた冷凍ラタテューユをかける、これがパリ時代の夕食の定番だった。

クスクスといえば、やはり忘れられないのがモロッコのマラケシュのクスクス屋台。こちらは日本でいう吉野家の牛丼のような風情で、極めて庶民派、安い、早い、うまい。パリ大学の留学時代、ふらりと一人旅をしたマラケシュ、インディージョーンズの世界そのままのスークの中に迷い込み、本当に道に迷い、アフリカの日差しのなかで肌は焼け、そんな中ようやくたどり着いたフナ広場、そこの屋台のおっちゃんに促されるがままに食べたクスクスのうまかったこと。パリの上品なテーストとはまた違う、おっちゃんパワーを舐めんなよ的な下町的な味わいは、いまも忘れがたい。

日本に住む現在、あのクスクスの味を再現すべく、代用品として成城石井のキヌアでできた地中海サラダを買う日々。これはこれでうまいのだが、やはりときどきクスクスを食べたくなる。東京でクスクスを食べられる店といえば、代々木のひつじ屋か、四谷の新道通りのNeufくらいしか思い浮かばない。いずれもそんなに頻繁に行く店でもないので、やはりもの悲しい。

結局、食べ物はその産地のものが一番うまいんだろうな、と思う。北海道で食べたジンギスカンや石狩鍋、バターラーメンは異常に美味かったし、熊本で食べた馬刺しも忘れられない。美味いものを美味いと感じながら食す、ってやっぱり重要だよな。

東京でうまいものって何なんだろう。池袋のわいんやの田舎風テリーヌはかなり好きだった。最近よく行く、大崎の蕎麦屋、そじ坊の葉わさびそばもランチとしてはお手頃。一方で、東京カレンダーに出てくるような、いわゆるオシャレな店なんかにも付き合いで行ったりはするけれど、そういう店に限って心底うまいと思ったことはまったくない。

舌先の快楽ではなくて、細胞そのものが喜ぶような食事を希求する、というふうになると、東京は分が悪いのだろうか。以前、四谷にあった魚専門店、漁船と直接契約をしているらしく、新鮮極まりない刺身を食することができた、そこの刺身を食べていると、あぁ魚の命を食しているのだな、と感じることができたのだけれども、その店も潰れた。

生命を食する、ということを食事の本質としたときに、そんな要望に耐えられる店というのは限られてくるだろう。自宅のそばのオテル・ドゥ・ミクニの、阿保みたいに高いランチを食べたとき、その時はたいして美味いとも思わなかったけれど、それでも忘れらない記憶として残っている、それはやはり、食すということの本質的な体験を味あわせてくれたからなのだと思う。

結局、美味いものはうまいよね、ということで、これからもうまいものを食べよう。身体が喜ぶうまいものって本当に大切なので、これからも探究を続けます。

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