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ベイトソン『精神の生態学へ』覚書き part 3

ベイトソンの『精神の生態学へ』、岩波文庫版の中巻を読み終える。個々の論考のアクロバティックな展開に翻弄されながらも、全体を通して見えてくる世界観もあるので、以下覚書き。

中巻では、ベイトソンの思想の中でもとくに有名なダブルバインドの構造が展開される。統合失調を個人の問題ではなく当人を取りまく家族の関係性に求めたダブルバインドは、以下の要件が満たられたときに発生する。(「統合失調症の理論化に向けて」を要約)

  1. 二人またはそれ以上の人間がいる

  2. 繰り返される経験

  3. 第一の禁止命令:「これをするな、したらお前を罰する」あるいは「これをしないと、お前を罰する」

  4. より抽象的なレベルで第一次の禁止命令と衝突する第二次の禁止命令:非言語的な手段で伝えらることが多い。「これを罰と思ってはいけない」「これを禁じるのはあなたを愛しているからこそ」など。

  5. 犠牲者が関係の場から逃れるのを禁ずる第三次の禁止命令

禅の修行もまた、このようなダブルバインドの中で悟りへの道を模索するものかもしれないが、統合失調症の場合は自己の分裂へと至る。上記のような状況に長く浸った統合失調症者は、あるメッセージがどのような文脈において発せられているのか、つまりメタメッセージを読み解くことが出来なくなる。

ベイトソンが展開するダブルバインドは、マウンティングを目的とした職場におけるパワハラでも使われているのではないか。A と言ったら違うと言われる。そこでB と言っても「そういうこっちゃない」と言われる。何も言えなくなると「何も考えていない」と言われ、さらに加えて「これはあなたのためにやってることなのよ」と畳みかけられる。言われている側は、世界をまっとうに認識できる存在としての自己の尊厳が急速に傷ついていくのを感じ、コミュニケーションに対する恐怖心だけが増大していく。

ダブルバインドでも分析された階層の異なるメッセージ間の衝突、というアイデアが、おそらく学習の分野にも広がっていったのだろう。次は、ベイトソンが分類する学習についてのメモ。

<ゼロ学習>の特徴は、反応の特定性にある。そこでは一つの決まった反応が、正しかろうと間違っていようと、修正されることはない。
<学習Ⅰ>とは、反応が一つに定まる定まり方の変化、すなわちはじめの反応に代わる反応が、所定の選択肢群のなかから選びとられる変化である。
<学習Ⅱ>とは、<学習Ⅰ>の進行プロセス上の変化である。選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切り方の変化がこれにあたる。

「学習とコミュニケーションの論理的カテゴリー」より

個人的な経験から言うと、語学の学習のコツをつかむ、というのも学習Ⅱに該当するように思う。英語を学んだときは、別の言語を学ぶということが初めてだったために大変苦労した。英語を学ぶことそのものは学習Ⅰに属するのだろう。その後、フランス語を学んだ時には、英語でつかんだ外国語の学び方のポイントを踏まえることができたので、習得時間が短くて済んだ。文法の理解においてこの時期はこれくらいのモヤモヤが残っていてもよい、知識を入れていけばやがて解消する、という感覚や、この時期の構文読解は時間をかけてでもじっくりとやったほうがよい、という嗅覚は確かにあった。それは、現在Pythonという新しい言語を学ぶ際にも役に立っている。

人間の性格も学習Ⅱによって形作られる。環境によって特徴づけられた様々な刺激の傾向性が、その人自身の傾向性を規定する、ということになるのだろう。そして、そのようにして形成された性格を、さらに一つ上のレベルから改変していこうというのが学習Ⅲになるのだろうか。この辺りまでくるとようやく、ベイトソンを読み始めたそもそものきっかけである主体の解体が見えはじめてくる。

(学習Ⅲにおいて)学習Ⅱで得られる全体に、より大きな流動性ーそれらへの捕らわれからの解放ーが得られる点に変わりはない。(中略)
習慣の束縛から解放されるということが”自己”の根本的な組み換えを伴うのは確実である。”私”とは、”性格”と呼ばれる諸特性の集合体である。”私”とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、形づけの「型」である。要するに”私”とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。とすれば、Ⅲのレベルに到達し、自分の行動のコンテクストが置かれたより大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、”自己”そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。経験が括られる型をあてがう存在としての”自己”が、そのようなものとしてはもはや「用」がなくなってくるのである。

「学習とコミュニケーションの論理的カテゴリー」より

自己と環境との境界線が溶解していく。自己と環境とを分断した二つのものとしてとらえるのではなくて、循環する一つのシステムとしてとらえよう、という動きがここから生まれる。この辺りは下巻でさらに詳細が語られていくのだと思う。

なお、読めば読むほど、ベイトソンの思考とオブジェクト指向のプログラミング言語の親和性を感じる。入力と出力の関係、条件判断処理と繰り返し処理、関数もオブジェクトになる、等々。世界の記述のしかたの新しい可能性があるのだろうか。

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