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「花束みたいな恋をした」を二回観た僕は、パズドラしかできなくなった麦くんのために本を書こうと思った

 恋愛映画を観に行く、しかも二回も。僕の人生にはなかったことをした。

「花束みたいな恋をした」のストーリーを簡単に言えば、若い男女が出会って愛し合った後に別れるまでの顛末を描いたものだ。それが僕には新鮮だった。
 よくある恋愛ドラマは恋の成就で完結する。恋の破局が描かれる場合は、それなりのドラマチックなエピソード(死による永遠の別れ、みたいな)が用意される。
 しかしこの映画は、どちらでもない。ふたりがお互いの想いを確かめあってハッピーエンド、でもなく、悲劇的で感動的なラストシーンで終わる、わけでもない。どこにでもいそうな男女が、ありふれたきっかけで出会い、ありがちな流れで一緒に暮らしはじめ、そして珍しくもない理由で別れる。そうした「よくある話」が丁寧なストーリー展開と秀逸な台詞のやりとりで、とても魅力的な映画となっていた。
 僕がもう一度この映画を観たいと思ったのは、そのストーリーと台詞の妙をもう一度味わいたいと思ったからだ。そして二度目を観終えて映画館の照明が灯ったとき、この映画について語りたい、と強く思った。
 そのことについて、書いてみようと思う。

 大学生の山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)が惹かれ合ったのは、好きなものが一致していたからだ。
 初対面で互いが読んでいる本を見せ合ったとき、自分も読んでいる本だと知る。

絹 「わたしも穂村弘大体読んでます」
麦 「僕も長嶋有はほぼほぼ」

 それから彼らは自分の好きなものを怒濤のように語り合う。

絹 「全然普通ですよ。いしいしんじ、堀江博幸、柴崎友香、小山田浩子、今村夏子、円城塔、もちん小川洋子、舞城王太郎、佐藤亜紀」

 絹が「全然普通」として挙げる作家を、麦も読んでいる。このふたりの間では「普通」は揺るがない。
 しかしこの名前を全部知っているのは、そこそこの小説好き、しかも文学系の読書家だろう。「全然普通」と言いながら、彼らは自分と同じ趣味の人間と出会うことは少なかったのではないか。だからこそ、互いに惹かれた。
 初めて麦の部屋へ入った絹が彼の蔵書を見て「ほぼうちの本棚じゃん」と嬉しそうに呟くシーンが印象深い。ふたりは同じものを好きと思う相手を見つけたのだ。
 それからの彼らは恋愛に向けて一直線。就活と親からの干渉に疲れた絹に麦は「一緒に暮らそうよ」と提案し、ふたりは同棲を始めるのだが、その前に印象的なシーンがある。絹が就活で圧迫面接を受け、メンタルにダメージを受けていることを知った麦が、絹を泣かせた面接官について言う台詞だ。

麦 「偉いかもしれないけど、その人はきっと今村夏子さんのピクニックを読んでも何も感じない人なんだと思うよ」

 今村夏子は絹が挙げていた作家の中のひとり、「ピクニック」は彼女のデビュー作『こちらあみ子』に収録されている短編だ。


 この作品では、ひとつの「嘘」が描かれている。しかしそれが「嘘」であることは最後まで明かされない。いや、読めば明白なのだが、記述者は最後までそれを「嘘」とは書かない。読者は終始、その宙ぶらりんな状況に置かれたまま、物語に付き合うことになる。
 これは読者にそこそこのストレスを与える。そのストレスこそが魅力でもある。白黒をはっきり付けたがる実業の世界とは異なる人間の機微を受け入れ味わうのが、そうした文学の魅力でもあるからだ。麦が面接官を「ピクニックを読んでも何も感じない人なんだと思う」と評したのは、相手を即物的な人間として自分たちとは違う存在だと断じたからだろう。
 しかしこの「ピクニック」云々のやりとりは、映画の後半に思いもしなかった形で再現される。
 同棲を始めたものの麦は目指していたイラストレーターの仕事もうまくいかず、親からの仕送りも止められて経済的に行き詰まり、遅い就活を決意する。そして就職した会社は当初五時には必ず帰れるという話だったので、それなら帰宅後にイラストを描けると喜んでいたのだが、実際は営業部に配属され、夜遅くまで仕事をさせられることになる。忙しい日々の中で麦は描くことからも離れ、漫画も小説も読めなくなり、次第に仕事第一の人間になっていく。
 一方ずっと小説や漫画、ゲームの世界から離れない絹とは距離ができるようになり、気持ちが擦れ違っていく。そして絹が医療事務の仕事を辞めてイベント会社に派遣で勤めたいと言い出したとき、ついに亀裂は決定的となる。麦は「謎解きのアトラクションとかやってて、漫画の原作使ったり、音楽のプロモーターもやってるし」と絹が説明する会社のことを「遊びじゃん」と一言で切り捨て、自分の仕事について思いを吐露する。

麦 「大変じゃないよ別に。仕事だから。取引先のおじさんに死ねって怒鳴られて、ツバ吐かれて、俺、頭下げるために生まれてきたのかなって思う時もあるけど、でも全然大変じゃないよ、仕事だから」

 これは絹が受けていた圧迫面接と同じ、いや、それ以上にひどい仕打ちだ。当然、絹は「その取引先の人、おかしいよ」と言う。麦が「偉い人なんだよ」と言い返すと、彼女は反論する。

絹 「偉くないよ。偉いかもしれないけど、その人は、今村夏子さんのピクニック読んでも何にも感じない人だよ」

 かつて麦が言ったのと同じことを絹が言う。しかしここで麦は「俺ももう感じないかもしれない」と言う。

麦 「ゴールデンカムイだって七巻で止まったまんまだよ。宝石の国の話も覚えてない。いまだに読んでる絹ちゃんが羨ましいもん」
絹 「読めばいいじゃん。息抜きくらいすればいいじゃん」
麦 「息抜きにならないんだよ。頭入らないんだよ。パズドラしかやる気しないの」

『ゴールデンカムイ』も『宝石の国』も麦が絹と一緒に楽しんで読んでいた漫画だ。しかし仕事に追われる彼は、それさえも頭に入らなくなってしまった。読者にストレスを与えることで楽しみを提供する創作物を受け入れる余裕を失ってしまったのだ。息抜きとなれるのは、反射的な操作で結果を出せるパズドラだけ。たしかに今村夏子に感動するのは、今の麦には荷が重いことかもしれない。
 対するに絹は、自分の好きを突き詰めて安定した仕事を離れる決意をした。ここにおいてふたりの食い違いは修復できないことが明らかになる。心は離れ、ついに同棲の解消、別離に至る。

 麦は仕事のために好きなものを捨て、絹は好きなことを仕事にした。
 一見すると麦の変節が別離の原因のようにも見える。しかし見方を変えれば絹の変わらなさが亀裂を生じさせたとも言える。
 きっと絹にとって麦は、自分ができなかった「成長した人間」であり、麦にとって絹は、自分にはなれなかった「いつまでも変わらない自分」だったのだろう。
 どちらが悪い、ということではない。ふたりの道は懸け離れてしまったのだ。

 そして僕は、僕のことを思う。
 僕は絹の側の人間だ。
 いろいろなところで言っているのだけど、僕は小説家になりたくてなったのではない。小説を書きたかったのだ。そのために一番有利な職業として小説家を選んだ。
「好き」を続けてきた人間だ。
 でも、いや、だからこそ、僕は麦の気持ちがわかる。「好き」を貫く大変さ、辛さを痛いくらい知っているからだ。実際、何度も挫折しかけた。それでも作家でいるのは、やはり諦めが悪かったからだろう。それに大学卒業後にサラリーマン生活を八年ほど経験してみて、こういう生きかたを続けるのは自分には無理だと骨に沁みてわかった。だからあの世界にはもう戻りたくなくて、必死に小説を書いてきた。くりかえす。僕は絹の側の人間だ。
 でも多分、僕の小説を絹は読まないだろう。彼女が挙げたような作家の中に、僕は入らない。僕の書いているものは極力読者に負担をかけない、軽く読めるものばかりだからだ。
 これは自虐ではない。いや、少しは自虐かな。大きな文学賞の候補になることもなく、大ベストセラーを生み出したこともない。ときどき自分でも「どうしてこんな作家が30年以上も生きてこられたのか」と不思議に思うことだってある。
 それでも僕は書いてきたし、本も100冊以上出版できた。それは僕の書いているようものを求めてくれている読者がいるからだ。
 もう一度言うけど、僕の本はそんなにストレスを感じないで読むことができる。そのように文章を選び、物語を紡いできた。そういうものしか書けない、というのはたしかにあるんだけど、そうした「軽い読み物」を求めているひとがいると信じていたからでもある。
 もしかしたら、僕の書いたものなら麦にも読んでもらえるかもしれない。パズドラをやる時間を少しだけ割いて、僕の本を読むことはできるかもしれない。
 そう思う根拠は、ひとつある。あるときネットで僕の本を「暇つぶしにはちょうどいい」と書いているひとに出会ったのだ。
 多分彼(あるいは彼女)は、少しばかり批判的な意味でそう評したのだろう。でも僕はそう受け取らなかった。僕の書いたもので暇を潰してもらえるなら、これはもう願ったり叶ったりだと嬉しくさえ思った。だって人間は、暇を潰せないと死んでしまう生き物なのだから。
 それでいて人生の時間は限られている。その時間を自分が書いたものに費やしてもらえるなら、これ以上の幸せはないと、これは本心から思う。
 だからといって、ただ時間を潰すだけで終わらせるつもりもない。僕の小説は軽くて読みやすいけど、牙も毒もないわけではない。読んだひとの心に傷のひとつくらいは付けるはずだ。その傷からわずかな毒が染み込んで、どこかに痛みを生じさせるだろう。そのひとに何らかの変化を与え、新たなビジョンを見せる痛みだ。それを快感と思ってもらえばいい。

 カッコつけて言うけど、いつか僕の毒では満足できなくなって、太田忠司の小説から卒業してもらっても全然かまわない。僕の後ろにはもっと毒のある、もっと魅力的な小説がたくさん控えている。今村夏子さんとかね。
 麦くんのようなひとにも、いつかまた「ピクニック」を読んで感動できる心を取り戻してほしいし、そのための架け橋としての僕の小説を読んでもらえたらと願う。
 でも欲を言うなら、そんなひとにもたまに「そういえば昔、太田忠司の小説を読んだよな」と思い出してもらえたら最高だ。
 そういう願いをモチベーションに、僕はこれからも本を書いていこうと思っている。

(参考文献『花束みたいな恋をした』坂元裕二(リトルモア)


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