ストロベリーソングオーケストラ『血の濫觴』毒電波社
<演劇>仕立ての「電波大放送~怪人 赤マントの犯罪~」から始まる全13曲は、いずれも不穏な空気に包まれており、これらの楽曲が、座長演ずるところの怪人 赤マントによる犯罪として仕組まれていることがわかる。ここで言う<演劇>とは、寺山修司率いる天井桟敷の系譜に連なる前衛的で、アンダーグラウンドな白塗の演劇であり、スペクタクルである。
ストロベリーソングオーケストラは、この<演劇>に、パンク、ヘヴィ・メタルから、和楽に至るまでありとあらゆる音楽要素をごった煮のように導入する。普通、様々な要素を組み合わせると、ごてごてして聴きにくくなったり、晦渋で重い音楽になりがちだが、月影美歌による歌と高橋ヒデヲによる鍵盤によって、主旋律が明確で打ち出されており、聴き手に明確にイデーが伝わるようになっている。例えば「大空を失った男」などは、比類のない美しい旋律の曲といえるだろう。音楽の多様な要素は、ストロベリーソングオーケストラにとって、飽きの来ないエンターテイメント性を付与したというべきで、プラスに機能しているといえるだろう。
さらに注目すべきは、座長の宮悪戦車によって、毒性のある意味づけが為されていることである。この毒性は、江戸川乱歩や夢野久作の系譜に連なる反世界的・反権力的なものである。反権力的な意思は、「非傀儡宣言」に現れており、ここで隷属関係を断ち切る意思が表明されている。この思想は、『東京ゲリラ 2』におさめられた「包丁ロマンス」に連なるものである。「包丁ロマンス」では、穴あき包丁に<アナーキー包丁>の意味が付与される。「非傀儡宣言」では、鏡町代表の影男による犯罪が、非傀儡への志向に基づくものである、とされる。ここにおいて、乱歩的キャラクターが、アンダーグラウンドヒーローに反転する。ストロベリーソングオーケストラの楽曲は、総合して<鏡町>サーガを構成し、現実世界とは異なる幻影の世界から、現実世界の不条理を撃つ仕掛けとなっている。ここで言う権力とは、ある特定の権力というよりは、ありとあらゆる共同体に存在する生きづらさを強制する縛りと考えてよいだろう。そういった出口なしの縛りが存在する世界を対象化して、そこからの逃走線を探る装置として、<鏡町>サーガは存在する。
探偵小説マニアならば、「木偶の縫子」の歌詞は、実に本格ミステリの本質をついた歌詞となっていることに気づくだろう。ここで描かれているのは、フランス人形の瞳に鉛筆を突き刺す行為なのである。ここで私たちは、笠井潔による「探偵小説の窓から二〇世紀精神史を論じて得られたのは、「人間の時代」の一九世紀に対し、二〇世紀は「人形の時代」だったという結論だ。」(『人間の消失・小説の変貌』東京創元社、6頁)という指摘を思い浮かべてもいいだろう。笠井潔は、二〇世紀探偵小説は、大量死と大量生の時代精神を背景に生まれたがゆえに、人形と化した人間の抜け殻を描くが、それと同時に探偵というキャラクターの推理によって、人間に尊厳を与えようとしたと解する。つまり、探偵小説は、傀儡と化した人間を直視すると同時に、そういった縛りを与えている諸関係の糸を、論理の力で断ち切るパラドキシカルな性質を持っているのだ。
寺山修司を見出したのは、中井英夫であったが、中井英夫が自身の『虚無への供物』を、アンチ・ミステリとして位置づけたとき、先行するアンチ・ミステリとして挙げたのが、小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』であり、夢野久作の『ドグラ・マグラ』であった。勿論、ミステリというジャンルが、総て乱歩の影響を受けているのは言うまでもない。ここにおいて、寺山、乱歩、久作は、一続きのものとしてリンクする。(これらには、さらに土着性のドロドロ文化という共通項があるようだ。これらは座長の趣味だろう。)寺山と探偵小説の繋がりという点では、ここに横溝正史を加えても良い。『花嫁化鳥』などでは、金田一耕助を意識しているのだから。
潜在意識の問題に迫った「ジグムント」といった曲もある。タイトルは、無論フロイトのことである。一方で「青い花」や「新月に君想う」のような浪漫的な曲もあり、叛逆的な姿勢を維持しつつ、守るべき世界は、このあたりにあるのではないか、と思わせる。それは、純粋無垢な穢れなき世界である。
寺山演劇は、演ずる側と、観客の垣根を取り払い、市外劇へと向かっていった。その延長線上にあるストロベリーソングオーケストラは、音楽の力によって、さらに強力に観客を巻き込んでゆく。私たちが<鏡町>で目撃するものは何なのか。それは、見る者によって、万華鏡のようにその姿を変えるに違いない。この万華鏡は、世界を封じ込めた曼荼羅でもある。
初出 mixiレビュー 2009年12月09日 00:27
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