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電子音とほろ苦いと羽

「私、電子音が聞こえるんですよぉ」
 と、職場のかわいいかわいい後輩が言った。
なにそれ、と私が訊くと、だから、と説明を始める。
「電子レンジの音とか、スマホを充電している音とか。けっこうはっきり聞こえるんです。事務室ってパソコンだらけじゃないですか。少し、しんどいんですよねぇ」
 困っちゃいます、と、後輩は笑った。それは電子音と言っていいんだろうか、と私は思ったが、あえて突っ込まなかった。彼女が聞いてほしいのはそういう話じゃないのだ。
「だから、あんまり残業ってしたくないんです」
 彼女は間延びした声で、たいして深刻でもないように言う。が、実際は、職場の人間関係で彼女はわりと真剣に悩んでいる。今日も定時に退勤しようとした彼女に上司が難癖をつけてきたところだ。それからの冒頭のセリフなのだと、私はなんとなく察する。けれど、そこをつっこむと、彼女の愚痴が始まってしまう。私はそんなにしっかりとした理由は無いけれど、やはり定時に仕事を終えて、帰路についている。今は職場から駅までの帰り道だ。一仕事終えた後に、可愛い後輩とは言え、あまり心乱されるような話を聞きたくはなかった。仕事終わりにちょっとお酒でも、というような時も、私はほとんど参加しない。決まった時間に起きて、決まった時間しっかりと仕事をして、あとはすっきりと一人の時間を楽しむのが、私の生活スタイルだった。むしろ駅までの雑談をするような子は、彼女くらいだった。こんなにも人付き合いの悪い私に彼女が懐いてくる理由が、実はあんまり、よくわからない。
「いいんじゃない。私はいつも確認してるけど、茅野さんはその日の仕事をちゃんと終わらせているし。定時であがっちゃいけないなんて馬鹿なことはないしね」
「だから宮野先輩、好きです!」
 顔をほころばせて、茅野さん――後輩は、言う。こういう素直なところが、彼女のいいところだ。そして、職場全体の進捗をきちんと見ているのが、今の上司のいい所だ。言い方がいちいちマズいが。付け加えると、上司はこの後輩の間延びしたしゃべり方からなのか、彼女の実力を見くびっている節があるのも問題だった。彼女は実際、仕事ができる。しっかりした喋りだけが得意で実は不器用な、他の部下に回している仕事を彼女にいくつか任せるだけで、職場全体の効率は上がるだろう。今度そのように、それとなく上司に伝えておこうと、私は思った。それはそれとして。
「電子音ねぇ。私は気にしたことはないけれど、そんなに聞こえるのなら、どこにいてもしんどいんじゃない? 今なんてどこにいたってパソコンもスマホもあるじゃない」
「そうなんですよ、頭痛もしてくるし。家に帰ったら、スマホは電源切っちゃいますね」
 なるほど、だから休日には連絡がつかないのか。まあ、休日に社員と連絡を取らなくちゃならないような仕事もいかがなものかとは思うけれど。
「宮野先輩はそういうの、ありません?」
「……地震の初期微動なら、感じるかな。けっこう精度が高いの」
「本当ですか? それ、日本にいたら辛くないですか?」
 そうでもないよ、と、私は言おうとした。
「みーちゃん」
 言おうとしたけれど、ここ20年程呼ばれていなかったあだ名を呼ばれて、思わず立ち止まった。もう一度、みーちゃん、と呼ばれて、振り向いたまま、固まった。
「え、お知合いですか?」
茅野さんは目をキラキラさせながら、どちらにというわけでもなく、訊いた。


 私が幼かったころ、近所に、ちーちゃんと呼んでいた男の子がいた。笑顔がとてもかわいい、天使のような子だった。ちーちゃんは手入れの行き届いていない、糸くずだらけのセーターをよく着ていた。それが気に食わなくて、私はちーちゃんの隣に座った時、頼まれもしないのに、セーターの毛玉を毛づくろいするような気分でちぎっていた。つまんだ毛玉は空中で手を離すと、日光に照らされてふわふわと漂った。それが天使のようなちーちゃんのものだったからかもしれないが、私はぼんやりと、羽のようだと思った。
私は、当たり前のように、幼稚園でも小学校でもひとりぼっちだった。もとからあんまり、人とかかわるのが好きではなかったし、周りの子たちもあえて私に近づこうとはしなかった。そんな私と常に一緒にいたちーちゃんは、天使のような子だったのに、やっぱりひとりぼっちだった。それを私は、私といるせいだとなんとなく思っていて、申し訳ないような気分だった。けれどちーちゃんを誰かにとられるのも嫌だったので、私は相変わらずちーちゃんの隣に陣取って、毛玉をちぎっていた。ちーちゃんも、そんな私の隣に必ず座った。母猫の毛づくろいを待つ、子猫のようだと思った。
 そんなある日、ちーちゃんは、家族丸ごと、消えてしまった。学校では、事情があって、なんて、理由にもならないような一言で先生からの説明は終わった。
 それから私は、ちーちゃんに何かを言いそびれたような思いを抱えながらも、ごく普通に友人や恋人を作り、生きてきた。社会人になって、自立もした。ちーちゃんのことを、あえて忘れるような日はなかったが、それでもほんの少しほろ苦い程度の、淡い思い出だった。

「ちーちゃん」
 目の前にいた男性に、呼びかけた。その人は口元をゆるめて、私たちに近づいてきた。
「よかった、忘れられちゃったかと思ったよ、みーちゃん」
 そういう男性は、背が私よりもずっと高くて、仕立てのいい服を着て、きちんとした清潔な身なりをしていた。正直、覚えはほとんどない男性だったが――私のことをみーちゃんなどと呼ぶのは、彼しかいなかった。そして、そうだと思ってよく見ると、口元やしぐさにちょっとずつ、面影があるような気がした。
 けれど、けれど。そう、動揺している私を、茅野さんが引っ張って、小声で私を問い詰める。
 お知合いですか、幼馴染ですか、感動の再会ってやつですか――
 こんな、いい男と。
 そういう、可愛い後輩の声が、遠いような近いようなところで、わんわんと響いた。
 ちーちゃんは、そんな茅野さんのことなど気にしていないように、口元に笑みを浮かべたまま、私のことを見ていた。何を勘違いしているのか、茅野さんは、面白いおもちゃを見つけたように、視線を行ったり来たりさせ、最終的に事情聴取の相手を向こうに定めたらしく、ちーちゃんのもとにかけていった。
 私はそれを止めたいと思う。
 ――茅野さん、待って。
 そう言いたいけれど、言葉が出てこない。だって、言ったところで、彼女に伝わるとは思えない。というより、彼女に限らず、たとえ電子音が聞こえたとしても、好ましい身なりや雰囲気にくるまれた警告音を、きちんと聞き分けられる人など、そうはいない。多くの人が、雰囲気やら見た目で勝手に判断されて、苦しんだことがあるというのに。

 ――その人は確かに、いい男に見えるかもしれない。けれど、昔はもっと、天使みたいな顔で笑っていたの。そのころの彼が、好きだった。
 たとえセーターが毛玉だらけでも。“事情”によって急に町から消えなくてはならないような境遇にいたとしても。私だってそれほど平和な家庭環境ではなかったからこそ。きっと今でも彼は天使のままでいると思っていたかった。ほろ苦いものは、ほろ苦いままであってほしかったのに。

 彼の目が、笑っていない、なんて。

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