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戯曲が存在するのは

カレル・チャペックについては、先日も少し話した。そこではチャペックの作品名を枚挙するにとどまったが、『白い病』を紹介したときにかれのある言葉を引用した。今回はこれについての雑感を述べたい。

「戯曲が存在するのは、世界が良いとか悪いとかを示すためではない」

この言葉は、『白い病』執筆後に書かれたとされる「作者による解題」の中で登場する。たしかにチャペックの戯曲は、『白い病』にせよ『虫の生活より』にせよ『マクロプロスの処方箋』にせよテーマからして明るく朗らかなものではない(『白い病』は疫病と戦争、『虫の生活』は人間社会の虫への比喩、『マクロプロス』は長寿をめぐる苦悩)し、結末も決して楽観的なものではない。そのため、チャペック自身も自分の作品が絶望的な悲観主義と見なされうると考えていた。しかしチャペックはそれを承知の上で、自分は「いかなる悲観主義にも加担していない」と言う。むしろ楽観的なことを伝えることを意図しているとさえ言う。そこでかれの楽観主義に対する考えは、上記の言葉を理解するうえでの手がかりになるだろう。

楽観主義には二種類あるとチャペックは言う。ひとつは「悪いものから目を背け、ちょっと夢を見て、何か良いものへと向かう」というもの。もうひとつは「悪いもののなかにちょっと夢を見て、少しだけ良いものを見出そうとする」というものである。前者は、「いつの日か、病気も、貧困も、汚れ仕事も一切合切なくなる」ことを目指すこと、後者は「病気や貧困や重労働に満ちた今日の人生が、きわめて悪いものでも、ひどいものでもなく、どこかに何らかの価値があると言」うことだ。チャペックは後者の楽観主義の立場を採っているといえるだろうが、どちらが優れているというわけではない。前者のような崇高な理念を追い求めることは、「人間の精神にとってこれ以上美しい方向はない」。チャペックにとって真の悲観主義者とはなにより、「腕を組んで何もしない人」のことである。これは「倫理的な敗北主義」である。つまり、我々は仕事をし、何事かを求める限り、決して悲観主義者にはならない。チャペックはチェコスロヴァキア共和国が「第一共和国」と呼ばれた時代、第一次世界大戦の傷が癒えぬうちに、新たな軍靴の音が聞こえようとする時代に生き、そして書き続けた。チャペックが残した作品たちが、かれが決して悲観主義者ではないことをなにより物語っている。

しかし、誤りの中に誤りを、愚かしさの中に愚かしさを、そして不幸の中にただの不幸を見取るかぎり、あなたは悲観主義者ではないし、そうなることもできない。すべてのものの痛ましさ、愚かしさ、残酷さと無意味さを見るからといって悲観主義者であるわけではない。それが痛みを与えるかぎり、同情と怒りで身がふるえるかぎり、悲観主義者ではない。

「悲観主義について」カレル・チャペック『いろいろな人たち』飯島周訳、平凡社、1995、p. 188

それにしても、前者の楽観主義(「悪いものから…」)が美しいものであるとしても、私にとってそれは(そしておそらくチャペックにとっても)かなりの危険を孕んでいるものと思われる。脆くて危険だからこそ美しいのかもしれないが、この理念に対して手放しで賛同することは、私にはできない。この理念のうちにあり、たとえば「みんな」を据えるモットーには疑いを覚える。否むしろ危機すら感じる。そういったモットーを掲げる人にはぜひとも尋ねたい。「あなたの言う『みんな』とやらは、一体どこにいるのですか?」もしかしたらその人は、簡単には理解できないような宗教的或いは哲学的で遠大な理念を持っているのかもしれない。「みんな」とは、目的の国を構成する理性的存在者のことかもしれない。理想国家の市民かもしれない。形而上学的で抽象的な理念は、なにか人間を理性的で偉大なものと思わせる。それらにコミットすることは尊敬の感情さえ引き起こすかもしれない。しかしその理性的で偉大な人間をもう一度よく見てみるべきだ。向かい合ったり隣に並んだりして、話してみることだ。そうすると嫌でも気づくだろう。かれらは理性的で偉大であると同時に、理性的でも偉大でもないものと同様に怪我もすれば病気にもかかり、老いていくものだということに。ケアを必要とする存在、つまり「人間愛の必然的かつ典型的な対象」ではないか。つまりは人間だ。この事実は軽んじられるべきではない。立派で素晴らしいものにも、弱くて哀れな側面がある。カントでさえ、実際のところ「愛と同情」を必要とし、普遍的法則としているではないか。この明白な事実を受け入れることに、どれだけ苦労することか!自分たちの能動的で理性的な部分だけを見、弱くて壊れやすい部分を見ないこと(忘れること)は、よくあることであると同時にきわめて冷酷で危険なことである。抽象的な未来の理念のために、現実に今いる人間をいともたやすく見棄ててしまうのではないだろうか。ここでもう一度問おう。「あなたの言う『みんな』とやらは、一体どこにいるのですか?」その「何か良いもの」は、目の前にいる人間を切り捨ててまで目指すほどに良いものなのだろうか?そもそも、もしかすると悪いものも思っているほど悪くはないかもしれない。少なくともここには、傷つきやすくて関係の中でしか生きられない人間しかいない。完璧で自律した個人なんていうものは、ただの偶像なのである。

チャペックの作品に登場するキャラクターは、たとえ一国を統べる元帥であっても貧しい平民と同じ病気にかかるし、たとえ300年生きても、それがどれだけ退屈で孤独な生であっても死ぬのが怖い。チャペックは戯曲を通して人間を、つまり私たちを描いているのだ。ある国が戦争に向かっていくにせよ、疫病の災禍が続くにせよ、不死の処方箋を燃やしてしまったにせよ、それらが残す苦悩が今すぐには解決せずとも、絶望的な状況でも、人間は人間であり続け、ただただ続いていく。チャペックにとっては、人間がいるというそれだけで、絶望的であったとしても決して絶望には染まらないのである。働く人間がいれば、悲観主義に堕することはない。これはある種の楽観であろう。そしてこれがチャペックの楽観主義である。

「戯曲が存在するのは、世界が良いとか悪いとかを示すためではない」。結局のところ世界とは、それが良いものにせよ悪いものにせよ、チャペックの読者一人ひとりであり、それは他でもない人間なのである。もしチャペックの戯曲を通して戦慄を感じたのならば、それは私たち自身を見て戦慄するのと同じことである。私たちは、良いとか悪いとかではなく、何らかの主義に立つ以前に、人を信じなければならないのである。最大の信仰は、人間への信仰なのである。それを踏まえて仕事をすること。現実の対立に関与すること。善のかけらを集めること。戯曲が示すのは、きっとそんな当たり前のことなのだろう。

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