「○○主義者」の寂しさ
○○主義者というのが苦手だ。「自分は○○主義者です」と名乗る人はうさんくさく感じるし、「お前は○○主義者だ」と面と向かって対話相手に言うのはもってのほかである。
「○○主義者」を自称すること、あるいは他人を「○○主義者だ」と断定することには一体どんな意味があるのだろうか。とにかく、わたしはこのことを考えるたびに、えもいわれぬ寂しさを感じるのである。
「○○主義者」の寂しさは、その空虚さからくる。自分を「○○主義者」と名乗ることは、自分のアイデンティティを空疎な概念に明け渡してしまっているし、対話相手を「○○主義者」と断定することは、その人との対話を拒絶している。「○○主義者」には、名前も、顔も、声もない。そこに人間的なぬくもりは存在しない。
新たな概念を取り入れるのは大変だが、一度固定された概念を取り除くこともおなじくらい困難だ。自分の主張をまさしく言い表せる概念を見出すと、それにとびつく。そして「自分は○○主義者だ」と堂々と名乗る。そうするうちに、「○○主義者である自分」が先行してしまい、「○○主義者である自分」を演じるか、「○○主義者」の概念を歪曲してまで「○○主義者」でいようとする。そうすることで、この概念はますます空虚になる。一貫性を保とうとする態度そのものが既に矛盾を孕んでいる。
「○○主義者」の寂しさはもうひとつある。「○○主義者」自身が寂しがっているということだ。「○○主義者」ということで、おなじ「○○主義者」を探している。なぜなら、「○○主義者」のなかには、そのイデオロギーに確信を持っているというよりも、仲間を見つけて群れたいだけの人もいるからだ。そういう意味でも「○○主義者」は寂しい。
こんなことを考えていると、ジョージ・オーウェルの言葉を思い出す。オーウェルはスペイン内戦に参加したとき、以下のように語った。
降参のジェスチャーをしながら走ってくるhe を撃ち殺すことはできなかった。かれは「ファシスト」ではないから。しかし「ファシスト」なら撃ち殺せた。つまり、名前もない、顔もない、声もない「○○主義者」のままなら、撃ち殺せたのである。イデオロギーは人間らしさを剥奪する手段として使われることもある。そういう意味を踏まえても、「○○主義者」が寂しいと感じるのは故無きことでないのかもしれない。
といってもわたしは「○○主義者など存在しない、あるのはそれぞれの個人だけだ」といったセンセーショナルなことを言いたいのではない。「それぞれの個人が○○主義者というだけではない」という、当たり前のことを改めて言っているだけだ。
一貫性の欠如や矛盾はふつう嫌われる。しかし実際は逆で、対話の際に出会われるこういった不合理こそが人間を人間たらしめるのだ。かれを「○○主義者」にせしめたなにか、たとえ一貫性を欠いてでも「○○主義者」であらしめようとするような、その奇怪なパトスに触れたいのである。そこに人間のきらめく瞬間がある。
「○○主義者」という言葉では捉えられないような複雑で厄介な部分こそが人間の妙味だと思うし、そういうものに惹かれる。その人が「○○主義者」ではない瞬間を捉えられると、喜びを感じる。ああ、私は「この人」と話しているんだ、と。名前も知らない「○○主義者」ではなく。
人間が火花を散らす瞬間。それは対話のなかにこそある。対話とは、つまるところ「○○主義者」の破壊なのだ。自らを「○○主義者」と名乗る人は、対話のなかで相手に自らを開示していくことで「○○主義者」でない自分がいることに気づき、対話の中で相手を「○○主義者」と決めつけている人は、対話のなかで相手を受け止めることで相手の「○○主義者」でない側面に気が付く。それが理想の対話である。(しかし実際は自分の偏見を強化するための暗示的なおしゃべりも少なくない。ところで、世の中にこれほどつまらないことがあるだろうか?)
「○○主義者」から零れ落ちるもの。それにこそきらめきが秘められている。そういうものを掬い取ることこそが、人間の仕事である。
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