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人生の目的がみつかる魔法の杖その壱
僕の好きな西田文朗先生の書籍『人生の目的がみつかる魔法の杖』から引用させてもらいます。
人間は生きて死んでいくだけ。最初からミもフタもないはなしで申しわけないが、結論だけを言えば、そういうことになってしまう。
『鬼平犯科帳』の小説家、池波正太郎にいわせると、『人間は死ぬために生きている』となる。
私は二ヒストリでも何でもないが、人の生死に関してこれまで人類が積み上げてきた膨大なデータを合理的かつ科学的に、つまり客観的に判断する限り残念ながらこれが結論というしかない。
だからこそ、私達はそこに自分なりの『人生の目的』や『生き甲斐』を探す
宗教に見出す人もいるだろうし、妻や子どもへの愛にそれを求める人もいる。
『世界平和や、よりよい社会のためにいきるんだ』そう考える人間がいたとしてもおかしくない。
『おかしくはないが、愛とか平和なんて恥ずかしい。しらじらしいじゃないか』と感じてしまう人もいる。
はっきりいわせてもらうと、だから人生の目的が見つからないのだ。
目的や目標もなく仕事をしながら、もっと面白い仕事があるような気がしたり、もっと有意義な生き方があるのではないかと悩んでみたりしているうちに、漠然と生きてしまうことになる。
人生の目的なんてもともと恥ずかしいものなのだと覚悟しよう。少なくとも合理的で、客観的な『理屈の脳』で考えれば、必ずそう見えてしまう。
『将来は大リーガーで活躍したい』というイチロー少年の夢も、会社草創期にミカン箱の上に立ち、『世界のホンダになるぞ』と訓示していた本田宗一郎の夢も、もしその時点で客観的に評価する者がいたとすれば、どうしようもなく恥ずかしい代物だったろう。
ソニーの創業者たちは『設立趣意書』などという、一般の人からみれば、とてつもなく恥ずかしいものをつくった。
『自由闊達で、愉快な工場の建設。日本再建、文化向上に対する技術面、生産面での活発な活動。不当なる儲け主義を廃す』
こんなしらじらしいことを平気で書いた。わずか30人に満たない社員で、デパートの配電室を借りてスタートしたばかりの零細企業である。
どう考えても彼らには、自分たちの実力に対する、冷静な判断能力が欠落していたとしか思えない。
もちろん判断能力そのものが劣っていたわけではない。彼らは客観的な『理屈脳』とは別のところから、自分たちの目的を見ていたのだ。
ここに、人生の目的を探す上での重大なヒントがある。
理屈の脳で探している限り、人生の目的や生き甲斐はみつからない
続く
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