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音にならない音を求められる事

モーツァルトの楽曲は全ての音をハッキリクッキリ正確に発音して
届けないとあの快活な世界にならないのですが
時代が進むにつれ「コレなんで弾かされてるの?」と思うような
正確に全ての音を弾く事を想定していないんじゃないか?
というようなフレーズが登場しだします。

特にマーラーが顕著ですが、弦の音域を想定していないポルタメント。
コレは正確に出発点~到達点への音移動が求められているわけではなく
引きずっている感が求められている気がします。
そもそも到着点の音に急激なディミヌエンドが付いていることが多く
到着点の音色が殆ど聞こえない音量まで落とす指定がされています。

ブルックナーで顕著ですが微弱音の細かいトレモロによる分散和音は
音程感が希薄で役割的にフレーズ感を求められているわけではなく
空気感が求められている気がします。

またマーラーやベルリオーズではコル・レーニョ奏法という
弓毛で弦を弾くのではなく木の棒で弦を叩く奏法が指定されだしますが
コレ楽譜指定の音程は全く伝わらない程、微弱な音程しか出ません。
フレーズ感を伝える役割は求められておらず
コツコツというパーカッション効果しか求められていないんだと思います。

これは弦楽器に音程の伝達やフレーズ以外の効果音としての役割を
持たせる手法が生まれてきたんだと思います。
弦楽器のってフレーズを演奏するだけではなく
雰囲気や空気を作る事も出来る可能性が探求されていったんでしょう。

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