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【長いエッセイ】わたしの我慢は一級品。

物置と化した角部屋から、父が段ボール箱をいくつも引っ張り出してきた。
「これお前のだから片付けといてね。」
やめてほしい。やっと片付けがひと段落したっていうのに、なんで勝手にモノを増やすんだ。自分が片付けると決めてやるのと、お父さんからやれと言われてやるのでは訳が違うのに。

父はいつもそうだ。気まぐれに片付けやら模様替えやらを始めては気が済むまでやり続ける。それで、自分の気が済むまでやったら、「俺のやることはもう終わったからあとよろしく」みたいな感じで私たちの持ち物は中途半端に放置。触るなら終いまでやってほしい。

そもそも自分のものに勝手に触られるのも嫌だ。なぜなら彼が本の中身や小箱の中身を見ていないという保証はないからだ。触ったということはつまり、中身を見たかもしれない…。たまたま床に落としてしまって見てしまったかもしれない…。

別にヤバいものを持っているわけではないし、本当に大事なものを触られたわけではない。だけど、やっぱり嫌だ。

ああでもしょうがない、やるか。みたいな感じで始めた片付けで、私はやっぱり過去の自分と向き合わなければいけなくなった。


段ボール箱の中身は思い出の品々だった。ノートや賞状や作文など。
捨てるか取っておくか決めるためには中身を確認しなくてはいけない。だけど、私はすこし見るのが怖かった。

個人的なことだが、私の小学校・中学校時代は、悲しくてつらい思い出が多かった。つらいと思っていることがあったけど、それを嘘だと思いたかったから、「自分の考え方を変えたらきっとこの状況をつらいと思わなくなるだろう、勘違いだ」と自分に言い聞かせていた。必死だった。

でもしばらくしてから、たぶん3年か5年くらい経ってから、莫大な量の「つらい」がやってきた。小学校3年分と中学校3年分、それと高校3年分を合わせた9年分のつらいが。
つらい気持ちを解消するためにやっていたことが、逆にそれを溜め込むことになってしまって、もうどうすることもできなかったし、どこから手を付けたらいいのかもわからなかった。
ただ、泣いた。人に気づかれないように静かに泣いた。

こんな感じで、私にとって小・中・高時代(特に小・中)はあまりよくないものだと、ずっとずっとそう思っていた。


だけどまあ、片付けはやらないと終わらないので、あきらめて「思い出の品々」の選別作業を始めた。
段ボール箱のなかにミルフィーユのように重ねて入れられている品々を、上から一枚ずつ剝がしていく。

まず作文。あー、これはいつかの国語の授業で書いた感想文。こんな話読んだっけ?…下にもいくつかあるな。これは詩だ。賞とったやつだけど校内に張り出されてめっちゃ恥ずかしかったやつ…。(これくらいは大丈夫だ。もう折り合いをつけてあるやつだから。)
次は…

こんな感じで作業は進んだ。おそらくだけど、もう本当に見たくないものはすでに捨ててしまっていたから思っていたよりライトな品々だった。
でも、ね。たまに捨てそびれること、あるよね?

あとは……ああ、これか。「修学旅行のしおり」&「感想文」…。

修学旅行とかそういう学校行事のたぐいは、もうずっと、ずっとずっと長い間チクチクとぐさぐさと私の心を刺しづけたものだった。
一体何が書いてあるのやら。どうせ捨てるんだろうし、見なくてもいいかな。まあでも、どうせ捨てるからこの際確認しておこうと思って、ぺらぺらと中身に目を通す。

修学旅行中のお約束……いったい何人が破ったかわからない。
細かな日程にマーカーで線が引かれている。持ち物リストも同様。
よくある旅行のしおりだった。ふう、よかった。
それで、あとは感想文か。
どうせ大したこと書いてないだろうな、書きたくもなかっただろうし。

どうせ見たって、苦しい気持ちを思い出してしまうのかもしれない。でも、それでも向き合って、少しでもこの気持ちをほどきたい。
そう覚悟して、ページを開いた。

感想文には、どこに行ったのかや何を見たのかなどが書いてあって、最後には「いろいろな場所を訪れた経験は自分にとって素晴らしい経験になった」と書いてあった。
…笑ってしまう。「楽しい」と書くならまだわかるが、小学生の私は「素晴らしい」と書いている。これは…盛っている、きっと先生もそう思っただろう。

おどろいた。自分が小学校生活を楽しんでいた形跡が残っているなんて。
本当に「素晴らしい」と思っていたわけではないと思う。
だけど、この私が修学旅行にそんな明るい言葉を充てられたことが、今の私にとってすごく意味があった。

いままで私は学校生活に対して苦しい気持ちしか思い出せなくて、「なんで他の子のように学校生活を楽しいと言えないんだろう、そう言える子が羨ましいよ、こんな自分ダメだ嫌だ」とばかり思い続けていた。もうそんなつらいことになんか触れたくなかったから、学校生活のことを「色々あったけど、まあいい思い出だよね」なんて本当は言いたくなかった。

助けてほしかった。だけど誰に何を言えばいいのかわからなかった。出そうとしたSOSは喉元で止めてしまった。大人はみんな忙しそうで、心配をかけるのは申し訳なくて親にも誰にも当時は言えなかった。ふいに出てしまったSOSも「大丈夫です」と言って、自分でもみ消してしまった。もみ消したのは自分なのに、ああ誰も気づいてくれないんだ、心配してくれないんだと逆に傷ついた。すぐに泣けるあの子が羨ましかった。私の方がずっと長い間苦しんでいるのに、どうして先生はあの子を助けて私を助けてくれないの?という気持ちがいつの間にかどうせ誰も助けてくれないよに変わっていた。
先生も、親も親戚も、友達も。いるけどだれひとりわたしを助けちゃくれない。ほら、裏切る。
大人が信用できなかった。人が信用できなかった。


でも、それは自分のせいでもあったんだと、気づいた。

どの思い出の品々にも楽しそうな私がいた。
色んな写真に、笑顔の私がいた。

誰が気づくだろう、この子が辛い思いをしているだなんて。
言わなくてもわかってほしかった。
だけど、「わかれ」と言うほうが難しいかもしれない。
それほど私はわかりづらかった。それに我慢強かった。

けれど、その我慢強さを「伝える」ことに使えばよかった。
もし、もっとわかりやすく助けを求めていたら。
わかってくれない人じゃなくてわかってくれようとする人を探せていたら。
そうしていたら違っていたかもしれない。
それは伝わるまで、見つかるまで、現状が変わるまで、つらい思いを我慢するのと同じくらいつらいことかもしれなかったけど、そうしていたらよかった。肝心なときに自分を守れない自分を情けなく思うことなんてなかった。


でももう、いい加減いいだろう。
気づかないうちに10年以上闘った。耐えた。
それで「もういいや」って思えた。
知らないうちに、私には嫌なことを10年くらいは耐え続けられるほどには強いよってことを証明していた。だからきっと、これからの10年は違うことでもっとしなやかに戦っていける。



長く、重い話でしたよね。ここまで読んでくださり本当にありがとうございます。

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