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血だまりを見つめる

彼の部屋の机の引き出しに、遺書と思われる手紙が2通、両親によって発見された。丁寧に封をされた便箋に入ったその手紙には、家族への感謝が綴られていた。そして、封もされていない、折り目も煩雑なもう1通は、次のようなものだった。



この手紙は、誰に向けて書いたわけでもありません。ただ、自分の雑多な頭のなかをなるべくありのまま書き出したいという心に従ったまでです。人は遺書においても真実を述べるとは限らないと聞いたことがあります。結局自分の名誉のためにも不都合なことは書かないために真実はわからずじまいなことが多いですが、私はなるべく自分の醜い部分や矛盾に塗れた部分まで全てをここに残したいですし、私が死んだら誰かがきっと読んでくれるだろうから、せっかくならなるべく多くの人に読んで欲しいとも思っています。

なぜ死ぬのかという問いに対して、問いで返してみたいと思います。なぜ生きるのか。何もしなければ生きている状態が持続する、ただそれだけの理由で生きているのではないでしょうか。
私は、死ぬという勇気ある選択をしました。馬鹿なことをしたと、貶される謂れはないと思います。この勇敢さを讃えて欲しいとすら思っています。
従来から、自死は当人の抱える恥辱の結果であり、また自死自体も恥辱であるとされてきました。私は自殺を恥辱とは考えていません。自殺は強き選択の結果であり、従来の見方を否定することこそ私の自殺の意義になると思っています。惰性で生きることを拒否する強さを貶す生者、それに気づくことのできない愚鈍な方々にこそこれを読んで欲しいのですが、きっと届くことはないでしょう。届かない故に愚鈍な生者たるのでしょう。

私は絶望しました。遺伝子に支配されていると思ったからです。遺伝子は自分の遺伝子、すなわち血縁を残すためなら他者を蹴落とすことも厭わないものです。誰かを助けるという利他的に見える行為も、自分の評価を高めるための遺伝的生存戦略のひとつにすぎません。セルフィッシュジーンというやつです。個体は遺伝子の乗り物でしかない、遺伝子はどこまでも利己的であるのです。生き残るための利己性、子孫を残すための利己性に操られて発される虚言の数々。無意識に騙し合う人々。騙しているのはあなたじゃない。私たちはその利己性に支配されているのです。利己的であることは問題ではなく、その支配性に苛立ちを覚えます。本当につまらないと思いませんか。

貨幣も遺伝子の指示する欲求に使われる。道徳も倫理も生存のための排他であって、所詮子孫を残すための動物的な何かを統制できない。人間が苦心し、頭を捻って生み出したその全ての産物は、我々が宿す利己性の前では無力なのです。

遺伝子はまた、人の価値すら平気で否定してきます。努力できるかできないかも初めから遺伝子で決まっているようです。一卵性双生児を、全く別の環境で育てても努力に関しての結果が同じだったという研究があります。あなたが今まで何かに費やした日々もそれに伴う結果も、ただ最初からそうプログラムされていたのだと、つまりそういうことになるわけです。こんな事実が罷り通っていいわけがありません。
私たち人間には、事実を否定する権利があります。捻じ曲げる権利があります。抵抗する権利があります。

ここに人間のいち個体としての自分、個体としての人間の理性の限界を見たから、それを打ち砕く大義があるのです。私は、自らこの血を切って、遺伝子を切る。その固い決意があります。
つまりこれは、誇り高き自殺です。自殺というものは、その瞬間、誰よりも強いもので、どんなに絶望して何かから逃げ出すように身を投げ出したとしても、その原動力がなんであれその行動はどんな生者よりも強いものです。
自殺を高く評価しすぎだと、自殺はそもそも評価するべきものではないとしたい気持ちもよくわかります。死至上主義のように見えるでしょうが、しかし、あなたは必ず死んだ人を思い出し、生きる何よりも美化する。その価値は、あなたが既に誰より認めている。


こうして自分の全てをここに残す決意をしたのだから、愛についても語っておかなければいけないと思っています。ずっと愛を語る価値のないものとして切り捨ててきた私は、この歳になるまでくだらないとして存在すら疑ってきましたが、性に合わないようなことも残さなければなりません。

私にも本気で愛することのできた恋人がいて、それはそれは本気で愛していました。彼女は汚れていなかったので、親友に寝取られた時は嘔吐し寝込む程でしたが、考えを深めて覚悟を決めるきっかけをくれたことに依然として感謝をしています。
彼女はもう純真ではないでしょう。あの純真性こそ若さが成し得る最高の価値であったのにもかかわらず、それを捨てたがる。そうして失って淘汰されゆくなかで、自分の犯した過ちを嘆き、失った純真性を回顧し、不幸を演じるがそこはメインストリートで、そんな王道な不幸を演じるあなたをもう見てはいられないと思うのです。巷に聞く愛という行為は陳腐さを増すばかりで、やれ偶像が偶像を崇拝し合うことに気づかない人たちが頭を使わずにありふれた不幸を唯一絶対の不幸のように嘆きあう様子を見ては理性動物としての退廃を感じ、私はそんな人々を啓蒙してやりたいとつけあがってしまうほど呆れてしまいました。巷に行われるは恋愛という歴とした経済活動であり、こと容姿や態度において異性から魅力的に見えるポイントを作り出して(私はそういったポイントを作る行為を「演技」と呼んでいます)本能に訴えかけるそれを交換しあって、口約束の契約までこぎつけた後は、非エロティックに、つまり意思を持つ主体として扱われたいという愛とそれに基づくセックスを欲する女と、女をオブジェとしてモノ化して見ることでエロティックなセックスを得たい男との食い違いから互いが苦悩し「病む」などというポップな言葉に昇華して、同じ過ちを繰り返し続ける様を「退廃」以外でなんと形容したらいいのか。そもそも純粋な性欲、すなわち相手を完全なモノとして扱って純粋な快楽を得たいと欲求する衝動がある男と、ない女では食い違うのは当然で、女の性欲は性欲とは呼べない、愛されたい欲求の延長でしかないわけです。男の恋愛も、相手をモノ化することと意思ある主体として認め受け入れることの狭間にある不安定な状態にあって、すなわち理性と本能の揺らぎの中に恋人を置くという、そういう技術な訳です。今一度自分の抱く感情や欲求を言語化することで捉え直すという人間にのみ許された試みをなぜ行わずして苦痛を語るのか、自分の苦痛を捉え直そうとしないことは自分に対しての不義理であるでしょう?自身にそんな不義理をはたらく人間は他者からも大事にされるはずがないでしょう?
そもそも、本当に他者と恋愛をしているのかと問いたいのです。他者としての意思ではなく、相手のイメージやキャラクターと恋愛をしているじゃありませんか?そのキャラクターは大体作られていますよ、その人が演技するキャラクターとあなたが勝手な思い込みで作るキャラクターによる、偶像を作り出しては偶像同士で疑似的な恋愛を行なって、付き合ううちにその偶像から逸脱する部分が見えて、ほとんどの場合それがすなわち意思である部分なのですが、見えた瞬間にその恋愛を終わらせる。そんなものは偶像同士で虚構に入り込んだだけですし、虚構に入り込んでは壊れて、入り込んでは壊れて、いつしか虚構しか知らない住人となる。そんな偶像ばかり見つめていたら人間と恋愛する意味はないでしょう、誰かが描いたイラストやキャラクターとしてればいいわけで、人間同士でするならば相手の意思を見つめて、時に殴り返してくるような相手と対決しながら、その過程で見たくないものも見なければならないはずで、そうして相手をそのまま肯定し想い、愛するという技術を磨いていく、それが理性動物人間の恋愛という営みでしょう?ただそれだけであるのに。
私は、若輩者ではありますが、今までの経験から、あなたがいなければ生きていけないとか言う人が、すべてを思い出に落とし込んではつらつと生きていけることも知っています。思い出になったが最後、私は偶像として消費される存在になることも、純真さを削り、淀みながら生きていくことも。
生を前提にしている以上、適応できる人間しかこの世に残ってない。淘汰されず生きている人間は、その強い態度でどんなことがあっても見事に消化して生きていく。浅い依存先を複数持って、なんとかやっていくから、死んだりしない。哀しみを抱え続けて生きているわけでもない。程よく忘却するのがうまいから、あなたは哀しみを抱えて生きているわけではなく、忘却しているだけで、汚れながら、その鮮度を曖昧に澱ませるだけだ。

殺す。殺さないといけない。それを殺さないといけない。だから見せつけなければならない。汚れた死を目撃して、鮮血が流れる様をもって、当たり前に享受される生にも、愛にも、当事者意識を持って欲しいし、私は、思考を放棄して異を透明化するその様をもう見たくないから、誇り高き能動的主体として、ここに私の理性の勝利を宣言する。その雄叫びを聞いて、自らを刺す私をまっすぐに見つめてほしい。私の理性は、死をもって勝利した。私は、一つでも多くの衝撃性を持って、あなたを打ち砕き続ける存在でありたい。




「本当にこのクラスで良かったと思います。ありがとうございました。」
拍手が鳴り響く。次は出席番号5番。前の人が席につくのを待ってから、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がり、皆の視線が彼に向くなか、教卓の前に向かう。うつむき加減な彼のその目は、床を見つめているように見えて、床のわずか上の空間を見つめている。その制服は、彼の高い身長とすらっとした体型にはやや小さいように見える。左胸には赤い花形のリボンが今にも取れそうに、彼と同じようにうつむいている。クラスでも明るく、友人も多く、成績も良く、部活では県トップの成績を残していたそんな彼の、晴れ姿というにはあまりに鬱屈とした様子だった。
教卓の前に立つ。少し震えているように見える。しばらく無言のまま教卓を見つめている。
「どうした、泣いていいぞ」
お調子者の担任の声で、何人かの生徒が笑う。彼は笑っていない。応えることもなくそのままでいる。担任の悪ふざけに応えてクラスの雰囲気を明るくしてくれる、いつもの彼でないことは誰の目にも明らかだった。

しばらくの沈黙の後、何かを決心したように、彼は前を向き、目を見開いて叫んだ。
「この世界は、虚構です」
いつのまにか彼の手に握られていた包丁は、直線的に彼の喉元に突き刺された。突き刺さる瞬間、彼はその包丁に全てを委ねるかのように、天を仰いでいた。
野太い声で響き渡る担任の怒号、生徒の悲鳴、机や椅子の動く音、倒れる音が混ざり合う。流れる血は、吹き出すというよりはゆるやかに溢れるように教卓の立つ床を撫でていく。自らの血に溺れるようにして、見るも無惨な姿で、彼は崩れた。


ある県の中心部にある高校でのその衝撃的な事件は様々な憶測や噂を生み出し、ある種のタブーのように扱われながらも、長く記憶に残るものとなった。しかし、ついぞ彼の手紙は、彼の両親によって幾度となく読まれた後、遺品の一つとして引き出しから外に出ることなく、ただ、そこに眠ったままである。


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