すかし1

第3話 北町のお奉行所

 さて、小国とはいえ大名のご子息がたかが一介の長者に嫁いで……ではなく、婿に入ったと聞いて、機嫌を悪くしていたのは北町奉行の澤山助右衛門である。

 まだ40そこそこの澤山は非常に優秀な男だが、自分にも他人にも厳しい。南町奉行である相木玄馬は気が優しい人だったから、澤山の厳しさが目立ち、江戸の住人たちは相木を「仏奉行」、澤山を「鬼奉行」と呼ばわった。

 この鬼奉行には、娘がひとり、息子が二人いる。

 子どもたちの年齢はずいぶん離れていて、上の娘、阿津が18歳。真ん中の長男、忠慧が13歳で、一番下の直太朗はまだ3歳。

 姉弟の仲は良いのだが、長女の阿津は澤山に似て気が強い。
 女だてらに竹刀を持たせれば奉行所の同心たち誰よりも強く、薙刀では上様から御前試合に招待されるほど。頭も良くて肝も据わり、弟たちの面倒もよく見る出来た娘だったから、遠山はことのほか、この長女を可愛がった。

 澤山は相模屋の結婚を、娘の阿津から聞いた。
 相模屋の女将が夫を亡くしたという話は聞いていたから、最初は「新しい夫と巡り会えて良かった」と言っていたのだが、新しく婿に入ったのが小藩とはいえ、大名の若様と聞いて驚いた。
 相模屋の女将とは亭主が亡くなって以降、何度か顔を合わせることがあったが、気の強い女性である。さぞかし、婿殿は尻にしかれて困っているだろうと気の毒になって、お信乃を婿ごと奉行所に呼び出してみた。


 呼び出してみた若様を見て、澤山は驚く。
「……これはまた……見事な……」
 澤山は、実直な男だった。だから、若君のお顔の方も素直に「綺麗だ」と感想を述べた。
「ありがとうございます。顔だけが取り柄の亭主でして……まだ、若うございますので、至らぬところも多々ございましょうが、格別のお引き立てを賜りますよう、よろしうお願い申し上げます」
 若君に話しかけているのに、お信乃が返す。相変わらずの出しゃばりぶりにお奉行様は顔をしかめながら、相模屋の新婚夫婦を下がらせた。
「おや?」
 帰宅しようと草履を履いていた若君が、手習い帰りの阿津に目を留める。「阿津。帰ったか」
 書斎から、父の澤山が阿津に声をかけた。
「すまんが、肩を揉んでくれ」
「かしこまりました」
 阿津は客人夫婦に軽く頭を下げ、父の書斎に入っていく。

 阿津の少し大きめの背中を……若君はただ、静かに見つめていた。

「あーつーさん!」

 聞いたことのない声で名を呼ばれ、ちょうど手習いから奉行屋敷に帰ったばかりだった阿津が振り向く。
 見たような覚えがあるようなないような……。身振りも羽振りも良さそうな自分と同じ年頃の男が、自分に向かって手を振っている。
「阿津さん、こんにちは!」
 にこにこ笑って自分を呼ぶ男になんだか薄気味悪さを感じて、阿津は半歩、身を引いた。
「ごきげんよう……どちら様でございましたでしょうか」
「昨日、お会いした相模屋ですよ」
 相模屋と聞いても覚えがなく、阿津は首をかしげる。
「あ、そういえば先日、相模屋の女将さんが再婚なさったとか……あなたが相模屋のお婿様なのですね」
「ええ、ええ、そうです」
 阿津の手を取り、若様が頷く。
 普段の阿津なら、ここで「無礼者!」とでも呼ばわって、手を振り払うところ。だが、相模屋の若様と言えば、小国ながらも大名のご子息。一介の旗本の娘ごときが、手を振り払って良いような御仁ではない。
 だから、阿津はやんわりと若様の手を自分の手から遠ざける。ところが、ちょっとでも手が離れたとわかると、若様がさらに手を握りしめてきた。「阿津さんは、お奉行様の娘さんなの?」
「左様。澤山助右衛門が長女、阿津にございます。以後、お見知りおきのほど……」
「堅苦しい挨拶は良いじゃないか、ねえ、団子でも食べに行かない?」
「あら、お団子? ちょうどこれから、弟を散歩に連れていく予定にしておりましたのよ。喜びますわ。呼んで参ります、少々、お待ちくださいませ」「え、ちょ、ちょっと、阿津さん!?」
 阿津は、恋愛ごとに疎い。だから、若様が自分を気に入ったということなど、つゆほどにも気づかず、小さい方の弟の直太朗を抱いて、再び若様の前に現れた。

 20歳と18歳の男女のあいだに、3歳の男の子がひとり。ともなれば、よその人には普通の家族に見える。
 初めて入った団子屋の女将が、美男美女、似合いのふたりと男の子に目をくれて「綺麗な顔の家族だ」と褒め称えたから、若様はすっかり、気をよくしてしまった。
「弟さん、美男子だねえ」
 若様が、団子をほおばる直太朗を褒める。
「ありがとう存じます。そういえば、相模屋さんにも男のお子さんがいらっしゃったのでは?」
「家内の連れ子でしてね。藤吉郎と、鶴松と言います。もう10歳と8歳になりますから、こんな可愛い盛りの頃を、わたしは知らないんですよ」
 そう言って直太朗の頭をなでるので、阿津はすっかり、若様が直太朗をお気に召したのだと思った。
「あらあら。それではどうぞ、可愛がってあげてくださいまし。なお殿も喜びますわ」


 その言葉を真に受けて、それから以降、三日にあげず、若様は阿津を誘いに来た。
 阿津は阿津で、若様は弟の「なお殿」を気に入って迎えに来ていると思っていたから、喜んでその誘いに応じた。
 ところが小さな子どもを連れ、三人で行ける場所など決まっている。
 それに目的はどうであれ、表向きはなお殿の散歩のおともだから、さて、良い雰囲気になってきた……と、思ったところで、なお殿が「おしっこ」だ、「おなかがすいた」だのいえば、それでその日の散歩はおしまいになってしまう。

 なお殿は最初の日に行った団子屋のわらび餅がお気に入りだったから、三回に一回は、そこに行く。それで、その団子屋の女将とすっかり顔見知りになってしまったのだが、この団子屋の女将という人がまた、口が軽い。
 阿津と若様が小さな子を連れて、まるで夫婦のように仲良く連れ立って歩いている……と言う噂は、すぐにお信乃の耳に入るところとなった。
 だが、お信乃は何も言わない。何も言わずに日々の仕事をこなし、子育てをしている。
 北町奉行澤山助右衛門の娘の阿津が、男勝りの強情者だという噂はお信乃の耳にも届いている。阿津のご気性は噂の範囲でしかしらないが、たまに寺などで見かける阿津は噂と違わず身体も大きく、とてもではないが若様が手に負えるような相手ではない。「ちょっと可愛いお嬢さん」などと手を出してみれば、たちどころに投げ捨てられ、組み伏せられてしまうだろう。
 相手が阿津だったからこそ、お信乃は若様の浮気心などみじんも気にしなかったのだが、若様はこれを、若い女の子と町に遊びに行く程度ならお信乃は許してくれるのだと都合の良いように考えた。なお殿が邪魔で進展の見込めない阿津のことは早々に諦めた若様は、半襟屋のおみち、米屋のおとよ、万屋よろずや・雑貨屋)のお滝など、次々、若い女の子と遊び始めた。

 遊ぶのには金が要る。だから、お信乃に金の無心が増えた。
「冗談じゃありませんよ、お琴にお華に、お茶に能に狂言。それにお姑様のお菓子代。あんたたち親子に毎月、いくら使ってると思ってるんです。これ以上お小遣いあげたら、うちは身体つぶしちまいますよ」
 そういいながらも、お信乃は月に1両なら……と、小遣いを増やしてくれた。

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