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【紀行文】古の王が見つめる地 松本

弘法山古墳とは

弘法山古墳は、松本市の中山の山すそに位置する古墳である。
上のリンクを見ると、桜がきれいな松本市内(松本平)を一望できる気持ちの良い公園として紹介されている。

3月上旬の弘法山古墳からの眺め。山々に囲まれた要害の地にも思える。

写真にある通り、私たちが訪れたのは、3月の上旬で、まだ桜の芽吹きも固いころだ。観光が目的ではない。まさのこの古墳の発掘現場を見に来たのである。

友人の学芸員が、この古墳の発掘をしている担当者と大学の先輩後輩関係にあり、発掘調査が大詰めとなったタイミングで「見に行こう」とこういうことになった。そこにご相伴させていただいたのである。
私はちょうど折口信夫の勉強から、古墳というよりも太古の大王の墓に心惹かれており、このお話を聞いたときに縁を感じた。

弘法山古墳の説明にはこうある。

「紀元3世紀後半の規模の大きな前方後方墳です。埋葬者は卑弥呼と同じ3世紀を生きた人です。」

新まつもと物語 弘法山古墳
東日本最古級という枕詞で弘法山古墳は紹介されることが多い
発掘現場からの松本平 古墳の王も眺めた景色だ。

女性の学芸員がにこやかに出迎えてくれた。
発掘現場は、過去の調査よりも掘り下げ、前方後方墳のくびれ部の特定や墳墓の長さ・幅を確定することが目的とのことだった。
写真は撮っていていないが、ちょうどまさに古墳のくびれ部分が地上に裸出しており、そこを大量の石が覆っている様子が見て取れた。
素人にも分かりやすい。
・・・と思ったのだが、学芸員の指摘は厳しい。「本当にそうなの?」
何百年もたった古墳の上には、いろいろな時代の痕跡が残る。当然、住居が立ったり、畑になったり・・・そうした時代の違い、用途の違いを緻密に検証して初めて往時の姿を特定する。「推定や想像」ではいけないのだ。
ここは、学問としての厳密性なのだろう。

しかし、発掘現場を担当する学芸員は、もう一つのジレンマを抱える。
「古墳の発掘調査を進めるということは、古墳を壊すということ」である。
当然、先ほどの調査を進めるためには、さらに深く深く掘り進めてなければならない。掘って人工的でない層が明らかに確認できて初めて、その直上が古代の層と言えるのである。
掘るか、掘らずか、それが問題だ。

「掘らなきゃわからないよね。」
友人の学芸員は、調査後に私と振り返っているときに何度も繰り返した。なるほど、私も説明を聞いているうちに、もっと掘り進めなければ、学問的な要求に耐えられないと思った。

結局その場では、更に掘り進めることをしなかったが、後日談を聞くと、発掘調査に関わる別の先生方から、再調査を命じられたとのことだった。
学問の世界はまこと厳しいものである。

私は、発掘の専門知識を持たないので、この古墳の上に立ち過去に思いを馳せてみることをしてみた。
回りはいくつもの山々に囲まれている。地域の人に聞くと、地元の人々の信仰の対象となるような山がよく見える位置であるし、近くに川も流れていることを教えてもらった。
先ほど発掘現場で見られた大量の石は、近くの川床から持ってこられたものらしい。
なぜ、この場所に、この方角で古墳は作られたのか。
古代の王を埋葬する、その理由はなぜか。
そういうことを考えた。

古代には、山に人は帰ると考えられていたのではないか。
古墳は古いほど山すそに作られているようだ。
時代が下ったり、また経済的な力と結びついた権力者の時代になると次第に生活圏の近くに墓が作られるようになる。
古代は、死者の住む国は山の中にあった、そう考えられるだろう。
山の中にあって、かつそこから自分の支配地を見渡せる場所、そこが墓になった。否、そのような絶大な権力者=神に見守られたかった、というのが墓を作った動機、人々を動かした力なのか。
そういうことを考えた。

この地域からは、エリ穴遺跡出土 人面付土版というのが発掘されている。これは松本市立考古博物館でみることができる。
松本平は、縄文時代には近隣の人々が集まり、マツリをする特別な場所だったようだ。大量の土偶や人面付の土版などが出土しており、その豊かな精神性にも非常に興味がある。
この辺りは、引き続き本を読みながら勉強してみたい。

古墳の頂上付近からの眺め

古墳の後は、松本市内見物

東日本最古級と言われる今注目の古墳の発掘現場を見るという非常に稀な機会に興奮した気分のまま、中山地域を後にし、松本市内に向かった。
このまま、旅記録を書こうと思ったのだが、思ったよりも長くなってしまったので、松本市内の記録は改めよう。

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