最近の出来事/救済者願望/文体迷子/表現とAI/ などなど

ちゃんと見てるよ

ほとんどの人々は聡く、誰かに指摘されなくても、自分のことをよく知っているのではないかと思う今日この頃。

最近は夜更かし気味で、午前0時を過ぎても起きている事が多い。祖母と一緒に住んでいた頃は9時には寝て5時には起き、畑仕事の手伝いをしてたんだけどな~。昔はとち狂ったような睡眠リズムだったが、ここ二年は朝に起きて夜に寝ているので、まだマシではある。

原因はムカデだ。蚊帳の中に布団を敷いて寝ているので刺される事はないのだが、50cmもない近くの障子でカサカサと動き回られるので、音が気になってしょうがない。昔から耳がいいのか、ほんの少しの物音や時計の秒針が動く音でも集中できなかったし、眠れなかった。ああいうのって、1度気になるともうダメなんだよね。

今月の出来事をギュッとまとめたので長いよ。なんか色々と紹介してるよ。平然と体癖の話が出てくるよ。

最近の出来事

二週間ほど前の夜、家の中に蜂が出た。何処から入ってきたのか分からないが、廊下のど真ん中に居座っていた為、トイレに行くにもキッチンに行くにもそこを通らなければいけない状況。

アシナガかスズメバチか分からないが、ハチである事は変わりないので、朝になれば明るい方へと去って行くだろうと、そのままにしておいた。もしかしたら前世で悪業を積んで人間に生まれ変われなかったのかもしれないので、殺生はできるだけ辞めておこうという訳だ。

ヘビは出るしハチは出るし、何年か前引っ越してきた時は、40cm~50cmはあるであろうトカゲらしき生き物と、白ヘビにも出会った。流石に熊はないが。ハチに関しては、母は二度刺されているし、祖母は数え切れないほど刺されている。アナフィラキシーが何のその、という感じだが、野山に囲まれて育った方々強すぎない? 祖母にヘビはこうやって捕まえるんだよと教わった事があるが、そんな平然とやられましても。

スターウォーズ(微ネタバレ)

観よう観ようと思ってずっと見ていなかったスターウォーズの視聴をようやく開始し、十日程度でエピソード4からスカイウォーカーの夜明けまで一気に見た。一年ほど前から母がお酒を飲む時に、時より二人で名作と呼ばれる映画を見ていて、その一環だ。基本的に洋画は字幕で観るのだが、母は文字を追うのが大変だと言うので、二人で観る時は吹き替え版になる。

全体的に観て、私はルークよりアナキン寄りの人間だと思った。あのある種の幼児性というか、未熟さのある所が私にそっくりだ。しかし、あの時代から典型的な勧善懲悪では無い物は、アメリカ映画にしては珍しいのだろうか。

ヨーダの「弱さと愚かさ、失敗の経験も伝えよ。」「ルーク… わしらは超えられるためにこそある。それこそが全てのマスターにとって真の重荷」という言葉が好きだった。ありきたりな事こそ、一番忘れてしまいやすい。

「生と死は一つ自然の摂理じゃ、逝く者を喜んで送るが良い、嘆く事も悲しむ事もない。その者への執着が深きに過ぎれば、貪欲の影が忍び寄る。」と、時々禅師みたいな事を言い出すヨーダ。

しかしですねヨーダ先生。確かに逝く者を皆が喜んで送りだせるような世の中なら、人間の苦しみや罪は減るかもしれませんが、執着が無さすぎるのも人間らしく無い気がしませんか? と、少し自己弁護してみる。

後パルパティーン皇帝の名前が最後までずっと覚えられなくて、無限のパワーを食らえおじさんと呼んでいた。名作と呼ばれるだけはあって、中々面白かったよ。カイロ・レン(ベン・ソロ)役のアダム・ドライバーと、C‐3POという最高のキャラクターに出会えただけでも観た甲斐はあったかな。

これから観ようと思っているのは、スタートレックと、男はつらいよ辺り。名越先生激推しのマンダロリアンは一旦寝かせてから。いや、その前にハンニバルかな。マッツに会いたい。 

スマホ

Xperia1くんが、遂に寿命を迎えたようなので、新しいスマホを買う事にした。

問題はどの機種にするかだ。人生で一番はじめに触ったスマホはAQUOSだった。「AQUOS PHONE 302Xx」という機種で、母が持っていたのをよく触っていた。諸々の電子機器の使い方や操作を覚えたのはこの頃だったと思う。7,8歳の頃かな。

なんとまだ残っていた もちろんジャンクである

母がAQUOSの次に買い換えたのがXperiaXZで、そこからXperiaを気に入って、初めて買った自分用のスマホがXperia1だ。3年半程の付き合いだったが、良い機種だったと思うよ。XperiaのDolbyAtomosはSonyが独自にチューニングしているのだが、これが一度聴いたら他に戻れない程の完成度で、ハイレゾとそうでない物を聞き分けられない程度には耳をバカにされた。

そんなXperiaくんが逝ってしまったので、最終的に候補に挙がったのが「Google Pixel6a」と「Galaxy S20+」だ。前者が新品で後者が中古品だが良い状態の物だ。安牌ならpixel一択なのだが、母が現在使っているのがpixel端末(3 XL)だったので、どうせなら触ったことのないUIがいいなと思い、Galaxyに決めた。

どちらを買っても後悔しなかったと思う。pixelは文字起こしの機能があるのだが、野田俊作ライブラリを文字起こしして印刷する時にとても重宝しただろう。文字起こし自体はサードパーティー製のアプリや、なんならgalaxyの標準のボイスレコーダーにも機能はあるが、精度があまりよろしく無い。一応ユーザー補助としてGoogle製の物もあるが、そちらの方がずっと優秀だ。しかしプロセッサがTensorではないのでね。

文字起こし…も良いのだが、galaxyに決めた理由はスクリーンショットだ。

私はある人のweb日記をよく読んでいるのだが、そのままブラウザでブックマークに追加すると、日付とサイト名だけでタイトルが表現されない為、それだけでは何がどの内容なのかサッパリ分からない。

そこで「これは」と思った物をスクリーンショットで撮っていたのだが、今度は撮った部分以外を読みたい時に、どの日付だったか分からなくなる時がある。検索機能があるので書いてある文章の一部をそのまま打てばその日の物が出てくるのだが、一々やるのが面倒だった。

が、galaxyだとURLごとスクリーンショットを撮れるらしい。例えば以下のように、まずブラウザ上でスクリーンショットを撮る。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2011/02/21.html

このように撮った物をGALAXY専用のアルバムで閲覧すると「Webサイトに移動」という表示がされる。これを押すと直接ブラウザからスクリーンショットを撮ったリンク先へ飛べるのだが、これがとてつもなく便利なのだ。

スクリーンショットをそのままブックマークに出来るような物で、とっても重宝している。この機能をこんなに多様する人も珍しいかもしれないが。

Twitterでどちらが良いかアンケートを撮った時、galaxyに一票も入らなかったのが決め手になった。なんか昔から負けてる方を応援したくなるんですよね。性かな。

一応DolbyAtomosもあるのだけれど、Xperiaに比べるとやはり劣っていると感じてしまう。まあ今はそこまで音質にもこだわらなくなったし、余程ひどくなければそれでいい。それでも前機種から比べると、

スナドラ855→865 バッテリー3200mAh→4500mAh
ストレージ64GB→128GB(+マイクロSDXC 1TBまで〈しかもアプリケーションも移せる!〉) メモリ6→12㎇

と、快適になる要素しか無い。3週間ほど使っているが今のところ大満足なので、良い買い物をしたなと思う。

出来るだけ国産の物を応援したいと、AQUOSやXperiaなども考えたが、色々と触ってみたい欲が買った。XiaomiやOPPOなどの中華スマホは個人的に少し抵抗があるので選択肢からは除外。サブ機としてならアリなんだけどね。あ、でもXiaomiPedは欲しいです()

昔のよしみでずっとAndroidだ。iOSは触った事が無い(姉の物で少しだけある)。iPhoneはいつか乗り換えるでしょう、いつかね。でもOSごと乗り換えると慣れるまで苦労するのよね。

Twitter

文章を読むというのは、私にとって少なくとも映像を見たり音楽を聴いたりするよりは能動的なので、結構体力を使う。読んだ後に色々と考え事をしてしまうからだ。

現在noteでフォローしているのが30人。この内、毎日更新するような人は2~3人で、後は不定期だ。一日に投稿される文字数はせいぜい1000~2000文字ぐらいだろう。

Twitterは50人前後いるのだが、趣味とそうでない真面目な人が混合しているので、頭の中がせわしない。よく1000人とかフォローしている人は、一体どうやって読んでいるのかと思う。おじいちゃんみたいなSNSの使い方をしている。

野田先生が三島由紀夫の「春の雪」を読んでいる最中に「仏教に関係するたとえが出てくると、セックスの途中で経済の話をされた気分になる」というちょっとあれな例えを書いていたが、まあそんな感覚だ。

要は私の場合、アニメやゲームに興じている時と、哲学書を読んだり勉強をしている時では、脳の使い方が違うという訳だ。どちらかを行っている時、もう片方が入ってくると邪魔になる。

まあでも、読んでて楽しくはある。幾つかのお気に入りを置いておく。

最近のマイブームは千葉雅也さんだ。名前と顔と、同性愛者の哲学者であるという事ぐらいしか知らなかったのだが、この方の書き方は何というか勇気づけのお手本のように感じる。私には時々言い方が深遠ではあるのだが、ドゥルーズが専門だと聞いて納得した。

名越先生が以前「とんでもないライフスタイルとか、とんでもない格好で、みんなが村で楽しく過ごしているのがいい」と言っていたが、案外Twitterってそれに近いんじゃないかな。「みんなが」楽しく過ごせているかは別だが、少なくともとんでもない人は沢山居る。

新規開拓

YouTubeに「PostmodernJukebox」というチャンネルがあって、最近の(と言ってもここ20年前後の)曲を1930年代風にアレンジしてみたり、ポップスをジャズやソウルに変えてみたりと、かなり楽しげな事をやっているチャンネルだ。下のお兄さんがお気に入り。声も歌い方も好き。

そして今度は、ところ変わってトムジョーンズにも手を出した。御年82であられるが、全く衰え知らずで聴いていて気持ちいい。

色々と昔の映像を見ているうちにスティーヴィーとの物を見つけて何の気なしに見たのだが、スティーヴィーの方に耳がいってしまった。この当時は恐らくまだ19だと思うのだが、天才的な上手さだ。モータウン出身は伊達じゃない。

後は作業用に本家の「THE Voice」を垂れ流しにしている。全員とてもアマチュアとは思えない。ダイヤの原石はまだまだ沢山居るなと感じる。


あ、6月4日の午前0時25分(つまり夜中)からNHK総合で安全地帯の40周年記念コンサートがあります。よろしければ是非。↓でマイク無しで歌う玉置さんが見れるよ。


CHÖ

更に音楽(という名の仏教)関係の話。最近凄く分かりやすく如来蔵思想の事を書いている人を見つけて、ちょっとだけ元気が出た。

チベット仏教に「ゾクチェン」という物がある。チベット仏教には大きく分けて、顕教(開かれた教え)と、密教(秘密の教え)と、もうひとつ「ゾクチェン」がある。野田先生は「インド仏教とチベットの土着宗教と中国の禅宗とが混合したもの」と言っていた。

そのゾクチェンの中に「CHÖ(チュー)」という儀式があって、その中の歌をよく聴いている。真面目に聴いていなくても、リラクゼーションのような効果があって良い。昔、般若心経ビートボックスというのを聴いた時もそうだった。近代的でいいと思う。

歌っているのは「Ani Choying Drolma(アニ・チョイン・ドルマ)」という人で、歌手兼、尼僧さんらしい。宗教という物は、コミュニティの場としての機能が大きいと思う。むかしの仏教教団では「布薩を共にする」事さえしておれば、どれだけ変わった説を唱えても破門されることはなかったという。

「布薩(ふさつ)」というのは、月に二度その地域一体の全僧侶が集まり、戒の条文を読み上げ(250近くあるらしい)違反していないか確認するという物だ。参加することに意味があるのであって、内容に意味があるのではない。こういう「形式的な儀式を共にすることを、仲間の条件にする」というのが、この話の面白さだ。


ゾクチェンの他にもうひとつ異端として「マハームードラ」という物もある。詳しくは自分で調べて欲しいのだが「不二のダルマカーヤ」だとか「明知(リクパ)」だとかいう文字をこれでもかと浴びないといけないので、おすすめはしない。が、興味のある方向けに一応二つほど下に置いておく。

野田先生が「ううん、難解ですね」と言うのは、解説の為の前振りみたいな物なのであまり信用しない方がいい() 逆に罵っていたらホントに理解できなかった時です() 

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2013/03/10.html「立ち位置を決める(1~4まで)」

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2014/03/14.html「空性と菩提行について(1~4まである)」

野田先生の仏教理解は、筋が通っているというか、とてもスマートだ。もちろんそれは、彼がそのように合点がいくよう、あらゆる概念を彼なりに捉えなおしたからで、彼自身も「『なんだ、お前はこんな物を仏教だと思っているのか』と罵っていただいても構わない。罵られても、私はこれが仏教だと思っている。」と書いている。彼の理解は、大乗仏教という言葉すら聞いた事が無い人でも、とっつきやすくはあると思う。それに暖かい。

仏教(正確に言うと顕教)を、そんなに深遠で手の届かないところにある教えだとは思っていない。要は、すべての衆生(人間だけでなく、命あるものすべて)に対して慈悲心をもって暮らすのが目的で、教えであれ瞑想であれ儀式であれ、すべてそのための手段だと思っている。無常・無我・縁起・空という仏教哲学は、実はひとつの道であって、かならずしもそこを通る必要はない。無知文盲の人であっても、仏さまを体験し、ご恩返しに生きる決心をすれば、それでいいわけだ。

法然上人が「念仏を信ぜん人は…智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」とおっしゃったけれど、あれは業の浅い人用の教えで、私などは業が深いので、「念仏を信ぜん人」になど到底なれないから、法身顕現が起こると、『宝性論』に飛びついて、超常体験(?)と空の哲学を哲学的につながないと、居心地が悪くなってしまうのだ。ナーローパにせよマイトリーパにせよガムポパにせよ、この道を歩いた人は、みんなもともとが学者で、それから瞑想をしている。つまり業の深い人々だ。インドにもチベットにも、そうでない人もいて、たとえばミラレパなんて、もともと無学だったので、ややこしい議論をしないままで幸福に一生を暮らした。あれっていいなあとも思うけれど、私には無理だ。

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2013/03/12.html

これはまだガルチェンリンポチェに帰依する前なので、これが最終の意思決定だとは思わないで欲しいのだが(よく補正項の内容は本気にしないでくれと書いている)私は多分、元々無学なままでも幸福に一生を暮らせるタイプの人間なので、野田先生に出会ってしまった事をちょっとだけ後悔している。この人との出会いは交通事故みたいな物だな。

いけない、チューの事だけ書くつもりだったのに。まあいっか。とても素敵なので聴いてみてくださいね。

救済者願望

ちょっと油断すると僕たちはすぐ救済者願望に凝り固まって、自分がいなければ相手はダメだと思い込みやすいんですね」野田俊作

「余計なお世話」という言葉がある。或いは「あなたのやっている事は間違いでこうするといいですよ」という人も居るが、これも上に書いてある事だ。

最近、自分の中にある救済者願望に気づけた。「メサイアコンプレックス」という言葉があるが、あれは「救世主願望」なので、微妙な差異があるように思う。あの言葉は行為の結果が悪行になりやすい人への、ある種罰則的な言葉であって、実はあまり好きではない。ちょっと反治療的だと思う。

自己肯定感は高いかと聞かれれば、高くも低くも感じていない。ただ、自分の事は好きだ。自信があるかと聞かれれば、あるともないとも思っていない。そうではなくて、多分私の場合は相手への「信頼」が足りていなかったんだと思う。ここ一二年ほど、母が自分の体をかきむしる事が増えた。少し痒いところでも、血が出るまでかきむしる。で、血が出ると安心するという。一種の自傷行為だ。

昔は辞めるよう促してしまっていたのだが、最近はアドラー心理学に立ち返って、何も言わない事にした。しばらくそうしていると、私の前で掻いて血を出した時に「心配してくれないの?」と言っていた。やはりアドラーは天才だと思う。少なくとも今の時点で私の悩みはひとつ消え、母は結末から学ぶであろうし、辞めさせる権利は私にはない。血が出るまでと言ってもそんなに酷いものではなくて、滲む程度だしね。

私は薬物だろうが、自傷行為だろうが、或いは性に走ろうが、等しく生きるための対処療法だと思っているので、罰する気にはなれない。というか、罰することは何ひとつ建設的ではないと思う。

「信用」というのは条件付きで「相手が自分の期待に応えてくれるのなら」という意があり、「信頼」というのは無条件で「私が何も言わなくともあなたなら大丈夫でしょう」という意思表示なのだから、相手を支配しようとしているのはそこから真逆の位置にあるものだ。「心配」は侵襲性があって、気を付けなければ支配性も帯びるという事を忘れてしまうところだった。

ただ、流石にすんなりとフロイト的な物語の中から抜けれる訳でもなくて、心の中で心配している。仏教に「鬼手仏心」という言葉があるが、そんな感覚だ。でも、経過を見ると、お互いそんなに深刻にならなくなったので、いい傾向なんじゃないかな。


自分で言うのもなんだが、私はちょっと優しすぎる。1人で抱えきれない物まで抱え込んでしまう性質があって、結果として双方を不幸にしてしまっている気がする。最近自分の事を10種なんじゃないかなと思う事が増えた。偶数系なのは恐らく間違いなくて、確率の高い順に2,6,10or8という感じだ。私の書いた物を読んでいる人なら、2種かもしれないというのは想像に難くないのではないだろうか。

「思う」とか「恐らく」とか「多分」だとかを多様していて、キッパリと言い切る事がなく、どちらかと言えば抽象的な表現が多い。私が野田先生の極めて明晰な文章に慣れ過ぎてしまったからそう思うだけかな。体型だけ見ると、明らかに6種なんだけどね。超絶猫背だし。絶対6種に惹かれやすいタイプではある。周りを見ると、ちっちゃな太宰ばっかりだもの。後は4種かな~と思う人も多い。

と、少し前役所のケースワーカーさんとこんなやり取りをメールでしていた。(体癖の話じゃないよ)

文体迷子

自分の書いた物は、所々で強いというか棘があるというか、そんな感覚があってあまり好きになれない。noteでやたらシニシズム的なというか侵襲的な人がおすすめに出てくる事が多く、結構心をやられていた。無意識にその人達のコミュニティに所属しようとしていたのかもしれない。いかんいかん。

先ほど上の方でも貼った覚えがあるが

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2012/06/13.html

と、

https://adlerguild.sakura.ne.jp/diary/2011/02/21.html

の両立が難しいのだ。共同体感覚に従うと、誰かが所属出来なくなってしまうような言動は、あまり好ましくないのだが、これは突き詰めると何も言えなくなってしまう。一方で共同体感覚には「一切の過去及びこれからの未来全てを含めた共同体に対して、貢献的か破壊的を定めて行動する」という意がある。単純なお題目とは違うところが一番の難しさだ。

「自分が正しく相手は間違っている」という態度に固執した事はないのだが、私が何か言う時は8種体癖的な性質なのか、何か特定の言説に対しての反論、否定であることが多い。勿論、言説の責任は自分で取るつもりなので、その点の不満はない。私の言葉を不快に思った人が居て、その結果たとえ私が刺されて死んでしまったとしても、それはひとえに私の過去の因である悪行の結果なのだから、ありがたくいただく事にする。ただ、相手が殺生を行ってしまうのも相手の悪行を増やしてしまうので、できるだけ刺されないような言葉遣いを心掛けようということだ。

しかし「刺されないような」というのは自分のためであって私欲なのだから、この場合は「相手の為になるような」と言った方が正しい。つまりは勇気づけである。

今までずっと「意見の衝突を恐れてもっていても言わない人」だった。特に2種のサラリーマン気質というか真面目な部分が出て、会話しても八方美人な感じになってしまう。

それで野田先生の文体を真似してみると、意外と書ける事に気づいた。ただ、書籍などの公の為のものではなく、日記というどちらかと言えば個人的な媒体の文章なので、毒気がある感じが多くなった。(もっと毒のある文を書いている人は五万といるが)

その感覚が本来の自分とは合わずに今まで自分の嫌いだった。文体そのものというよりは、細部の書き方や言い回しのような気がする。後は加減だな。そこは学べば少しはマシになると思う。

そうじゃなくても、自分の文章はどうにも好きになれない。今まで気づいていなかったが、実は完璧主義なんだろうか。

まず、文章の構成がしっかりしていない。話があっちこっちへ飛んで、と思ったら別の話をしはじめ、最後にはなんだか分からないところに着地する。いや別に真面目に人に読んでもらおうと思っている訳ではないので、とにかくやってみようという出来事で始めたので良いっちゃ良いのだが、自分相対的プラスには遠い。ほど遠い。一光年ぐらい遠い。

それに上に書いた物のせいで文章が長い。パスカルが「今日は忙しいので短い手紙は書けません」と言っていたらしいが、よく分かる。人様に見せるような文章は何を書くかではなく、何を書かないか重要だ。文章を書いていると「あれも知ってほしい」「これも書いておこう」という物が多くあって、どうしても短く収めようとすると、それはそれで納得できなかったり、できたとしても、そこに至るまでかなりの時間を費やす事になる。

でもまあ、まだ人間初心者ですからね。物心ついてからまだ10年ちょっとしか経っていないわけだし。伸びしろがあると思おう。

と、まあ上のような前提があって私はSNSをやっている。顔出しした時や経歴を書いた時に「ネットに個人情報挙げるなんて」というコメントが来るかと構えていたのだが、意外と来なかったのは、居るか居ないか分からない読者の方の私への「信頼」だと感じていて、少し嬉しく思う。

とりあえず、ずっとこの感じで書いていたので、上に書いた事に気を付けて一先ず大きく変えることはなく続けていこうと思う。

表現とAI

これに関してはもう結構前で正直うろ覚えなのだが…

二週間ほど前に「バンクシー 抗うものたちのアート革命」という映画の公開記念の番組がYouTubeで放送されていて、そこに名越先生が出演なさるという事でライブで見ていた。

正直言ってアート、特に現代アートは全くの無知で、番組中の半分以上の時間は目を回していた。ほとんど時間は、MCの「ダースレイダー」という方の手の綺麗さと博識さに舌を巻いていただけだった。

恥ずかしながら存じ上げなかったのだが、調べてみるとこの方、宮台真司さんと番組をやってらっしゃったり、ラッパー兼評論家というけっこう奇想天外な方で、経歴等を見るとなるほどなと納得した。

それでも面白く見れたところはある。途中「表現」の話題になった時、名越先生が「アーカイブ残っちゃうなら言いにくいなぁ~」と言って、出てきた言葉は酒鬼薔薇聖斗事件についてだった。まさか名越先生の口からその言葉が出てくるとは思っていなかった為、ちょっと驚いてしまった。

名越先生がある著名なアーティストの方と個別で対談された際、相手のアーティストの方が、事件の時、酒鬼薔薇が校門に首を置いた事について「戦後、それ以上の『表現』を世界のアーティストはした事があるのか」「人間の孤独という物を表現するという意味で、社会を震撼とさせる影響力、波紋の大きさとして、あれ以上の物があっただろうか」と名越先生に聞かれたらしい。他にも宮崎勤、三島由紀夫、植島啓司先生などの話題も出て、刺激溢れた三時間だった。

それから、AIの話題も挙がった。作曲家の菊地成孔さんという方が居て、この方は自身も精神疾患を抱えており、定期的にメンターの精神科医に薬を貰いに行くのだが、そこで精神科医の方に「音楽はもうAIが作ってくれるようになりましたね」と言われ、その後「精神科医もAIに代わる時代がもう来てますよ。その方が患者さんは豊かになる。」というような事を言ったらしい。

名越先生も、「診断を下す」というところはまだ人間でないといけないかもしれないが、健康診断みたいな物、つまり形式的な部分なら、精神科医の役割は代行できると言っていた。

これからの精神科医の役割は「なぜ生きるんだろう」というような問いに答える(というのは不適切かもしれない)、哲学者だという。正確には「哲学文献学者」ではなくて「哲学者(哲学を生きる人)」にならなければいけないと。ようやくメディカルサイコセラピスト復興への兆しが見えたというか、人間は人間性の開花に重点を置けるようになるのだろうか。野田先生もよく「仏教学栄えて仏教滅ぶ」と言っていた。

私は昨今のAIへの過剰な期待には、少々懐疑的である。懐疑的ではあるが、同時に希望でもあると思う。そうなる事を願っている。

それと、物理的なもの、例えばバンクシーの突如現れて壁にグラフィティを残すというような物は、AIには今のところ不可能だ。全体が作品となるという読み替えを作り上げるのも、難しいのではないだろうか。先ほど上に書いた酒鬼薔薇の「表現」とも同じように、二つともに共通するのは物理的な空間や多面的な解釈、構造化されていない表現、いわゆる匿名で顔も名前も知らない奴がいきなり壁に作品を出現させるという「バンクシー的なやり方」をAI化できるか、という事に直結するように思う。


これを見ていた時は、アガンベンだとかマルクス・ガブリエルだとかの名前が平然と出てきて、阪大の勉強会に初めて出席した中川晶先生のようだった(絶対に伝わらない例え)。全部書いてしまうと見る楽しみがなくなってしまうと思うので、興味のある方は是非。


終わりに


お金が無いっ!

万年金欠なのは相変わらずだが、スマホを新調してしまったのが結構痛手になっている。生活に困るほどではないが(いつも困っているのでもう慣れた)名越先生と養老先生の新書が出るし、エビデンス死ねと評されていた「客観性の落とし穴」も出版間近だし、最近野田先生の書斎の素敵な本をようやく見つけられたので欲しい本が尽きない。でも気力と体力は尽きてる()

野田先生が読んでいた物は基本的に古いので(当たり前だが)見つけるのに苦労する。値段も千円以下の物もあれば、優に一万円を超える物もあってネット上ですら売っていなかったり。

野田俊作顕彰財団よりhttps://adler.or.jp/%e9%87%8e%e7%94%b0%e4%bf%8a%e4%bd%9c/%e9%87%8e%e7%94%b0%e4%bf%8a%e4%bd%9c%e5%86%99%e7%9c%9f%e9%9b%86/

本棚が写っている唯一の写真だ。肖像権が怖いので、野田先生だけ消しゴムマジックで消してみたのだが、下半分だけ残ってしまって心霊写真みたいになっている。中央の部分は当然AI処理の為、何の本かは分からない。

棚の上の方に並べられているのは仏教関係、一番下の段の向かって左側は学会誌かなにかかな。野田先生自身が編集に加わった物もあるが、私が気になったのは写真の左上にある「ヴィトゲンシュタイン、デューイ、ニーチェ、ハイデッガー、カント」と書いてあるものだ。デザインが素晴らしい。

かなり前から探していたのだが、最近になってようやく見つけた。調べたところ平凡社の「世界の思想家」というシリーズで、全24巻あるらしい。昭和51年発刊なのでもちろん絶版だが、ネット上だと一巻抜けで1万2千円ほど売っていた。天から降ってきたり、何かの間違いで我が家に届いたりしないだろうか。一冊ずつ買うと高くつくので、どうせなら全巻セットで欲しい。

この書斎は恐らく自宅ではなく仕事場だろうが、パッと見でニーチェの全集が4つも置いてある。ニーチェを野田先生に勧めたのは頼藤和寛先生だ。高校時代、英語の授業の時間に隠れて「ツァラトゥストラ」をドイツ語で読んでいたら、先生に当てられ、訳の分からないままドイツ語の文を朗読したら、先生に悲しそうに「もうよろしい」と言われたらしい。かわいいか。

ニーチェやキェルケゴール辺りが好きだったのも、極めて頼藤先生らしい。写真一枚からでもこういった物語が浮かんできてしまって、エモーショナルな気分になるのは私ぐらいだろうな。

しかし、野田先生や名越先生の残した物を、しっかりと咀嚼して理解できるようになるのはいつの話かなぁ~。頼藤先生が二種かもしれないという話にほんの少し希望を見出している。

あ、そうそう。名越先生のデトロイトが4年ぶりに復活しました。みんな見てね。AI黎明期の今だとまた違った思いが湧いてきて面白いよ。


…最近生まれて初めてダブルクリームキャラメルクレープなるものを食べました。夢が詰まってて美味しかったです。以上。