気候変動の社会学

こんなテーマにしておきながら社会学というのがイマイチよく分かっていない。
ただ、この世界について考えるという意味で社会学という言葉を使ってみる。

パリ協定、グレタ、地球温暖化このようなワードを用いて気候変動は語られることが多い。

パリ協定は国連によって定められた各国のCO2排出目標だし、グレタは気候変動の象徴として語られる有名な環境活動家、また、気候変動は以前は地球温暖化と称されていた。

グレタを含め、私たち若者は気候正義を語る。Climate Justiceという言葉を合図に気候を元にした世代間の不平等、地域間の不平等を唱えるのである。

まあ、でも世代間、地域間の格差と言ってもあまりピンとこない。少し具体的にしてみる。

世代間の格差は少し分かりにくいだろうか、世代間で降りかかる気候変動の影響の違いである。
例えば、異常気象というのは数十年前にはめったに見られなかった問題だ。
しかし、近年では過去最高クラスの台風、例年にない雪不足など様々な影響が出始めている。

上の世代が生み出した問題が今の世代に降りかかっているそれが世代間の格差である。

地域間の格差というのはもう少しわかりやすい。端的にいうと先進国と発展途上国との格差である。
ほとんどの二酸化炭素排出量というのは先進国または中国やインドなどの人口が多い国である。

二酸化炭素を排出することで人類が進歩してきたといっても過言ではない。
その進歩のダークサイドはいつも弱者に降りかかる。

海面上昇における南国の島国の沈没の危機、砂漠化による難民増加、台風などの異常気象による被災。

お金があれば、防災や移住などで対応できるだろう。だけど、貧しければそれすら叶わない。

弱者はいつも搾取されるだけである。

どうすれば解決に近づくのだろうか?もちろん、気候変動解決に向け、金銭を投じ、使うエネルギーや生活を変化させることである。

例えば、石炭火力から脱却し再生可能エネルギーに変える、外国産から国産の商品を買う、飛行機は使わず電車などのよりサステイナブルな乗り物に使うなど。

しかし、事態はそんなに単純なのだろうか?そもそも私たちは1度知ってしまった贅沢を失うことを極端に嫌う。
車や飛行機の快適さ、エアコンの効いた部屋、コンビニなど…無かったら困るものもあるし、無いと不便でしょうがないものもある。

我慢するというのは私たちに極度なストレスを与える。我慢から始まる気候変動対策は有効な手段ではない。

では、持続可能な形で気候変動対策を!という話になる。
つまり、電気をサステイナブルにするというのが大きな解決策の1つである。車を電気自動車に、あらゆる家具を電化し、生み出す電気を再生可能なエネルギーなどに変えるということである。

なるほど、たしかに電気は現代社会が生み出した最高に便利な道具の1つだ。すでに電気を使わずして私たちは生活をすることができないし、その電気がサステイナブルになれば、問題は解決しそうだ。

だけど、これもまた単純な議論で収まらない。再生可能可能エネルギーは極端にエネルギー効率が悪い。面積あたりで生み出すエネルギーが少ないのである。
広い土地を持つ海外ならうまく行くかもしれないが、山がちな日本は特に難しい。
太陽光発電によって切り開かれた土地、風力による騒音、バードストライク。再エネも単純ではない。
電化もサステイナブルとは言い難い。そもそもものすごい量の地下資源を使う。
特にバッテリーは多くの資源を使うのでより多くの環境問題を引き起こすトリガーを孕んでいる。

視点を切り替えてみる。
環境対策に講じるのではなく、あらゆる環境問題に対応できる力をつける。
つまり、経済発展を促し、気候変動に耐えうる国力を身につけることである。

経済成長はどの国も強く求めるものであり、その点利害は一致しそうだ。
しかし、素早い経済成長には膨大なエネルギーを用いる。その膨大なエネルギーはやはり、化石燃料から生まれる。

たしかに気候変動は大きな問題だが、そこに気候倫理は大きく欠如してるように思える。

気候変動という問題を捉えた時、そこに生まれるのは正義問題であった。
だが、そもそも私たちは世界の果ての誰かを想像し、その人たちのために行動することができるのだろうか?

たしかに、グレタを含め多くの人が気候正義を叫び、訴えている。そういう人がいるのも事実だが、私たちはもっと自分の利害に徹底的に素直なのではないか?

貧しければ、明日生きるのに必死だし、他人のことを気にしてる余裕はない。ましてや世界の果ての人はなおさらである。
多少の豊かさがあれば、自分の生活をより快適にしようと務めるだろう。どこまでも世界と無縁なのだ。

だけど、グローバリズムがそれを許さない。世界と個人がつながり、世界のことを考えろという。

ここで政治の出番である。政治家は国の代表としてあらゆる問題を考える義務がある。
しかし、政治家も徹底的な個人なのだ。国という集団が個人の集まりである以上、国の利害を真剣に考える。

そうなると強い国に有利で弱い国に不利なシステムが生まれる。

私はどうすればいいか、いつも困る。世界のことを考えるには、世界のことを考える余裕がなければならない。
結局は強くあるしかない。勝ちたければ這い上がるしかない。

私たちは弱肉強食というこの世界の普遍のルールに縛られる。自由という幻想を追い求めながら、その根底には競走原理が働く。

正義も優しさもよく分からない。


いつも記事をご覧いただきありがとうございます。感想を頂けたらそれが一番の応援になります。 本を買ってくれたら跳んで喜びます🙏https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/210YM6JJDGU2A?ref_=wl_share