共感と対話から生まれる世界

最近、共感と対話という言葉を耳にすることが増えた気がする。共感(empathy)と対話(dialogue)は21世紀のキーワードになりつつあるように感じる。

ぼくが初めて対話という言葉に触れたのは、地層処分事業に顔を出してからである。
地層処分とは原子力発電から生まれたいわゆる高レベル放射性廃棄物というものを地層に埋めるというアイデアであるが、そこではまさに対話という言葉が行き交っている。

地層処分や大型の工場、米軍基地などの必要ではあるが、自分の庭におかないでといった意味でNIMBY(Not in My Yard)問題と認知され、解決までの足取りを探っている。

地層処分もまた、解決までの道筋が遠い問題である。すでに大量の高レベル放射性廃棄物が地上管理されているが、この地層処分事業は世界全体を見回たしてもどこも始まっていない。
一番進んでいるフィンランドで、処分場の決定、工事の着手が進みつつあるという状況であり、日本にいたっては処分場の検討すらついていない状況である。
なぜ、原子力発電を始める前に検討しなかったのかと文句が出そうになるが、過ぎ去ってしまったことをぐちぐちと言っていられない。現在、処分場の模索が急務となっている。

そしてまさに、この処分場の決定に必要な合意プロセスとして重要と考えらているのが対話である。

地層処分事業は、基本的に莫大な時間とお金がかかる。何しろ地下何百メートルという深さに放射線が無害化されるまで埋めておくというものなので、埋めておく期間は何千年、何万年という規模である。
サピエンスが進化したのが約20万年前、サピエンスが農業を生み出したのが1万2千年前、キリスト誕生が2千年前、原子力を人類が使いだしたのが半世紀前ほどだと考えると、長いような短いような気もしてくるが、とにかく世代を渡るような規模であることには間違いない。

そして、高レベルな放射線は人類の害になるものである。(あくまで放射線み身近に存在しているし、身の回りに存在するものは基本的に害をなさない)それを地中深くに埋めるのだから、いくら安全管理を徹底すると言われても不安になるのはしょうがないし、自分の地域でやりたくないと思うのは当然といえば当然である。

さて、いったいどうしたらこの問題を解決できるだろうか。地層処分事業を担当しているNUMO(原子力発電整備機構)は全国各地で対話活動というものを行っている。

対話は、辞書的にいうと向かい合って話し合うこと。会話や談話とはまた少し区別され、そこには一つの考え方に向き合うというようなニュアンスが含まれるような感じがする。

対話活動においてシュミレーションするゲームがある。”A”とその逆の立場である”B”というグループに分かれる。それぞれのグループはある考えの賛成派と反対派である。(例えば地層処分の自治体での処分に対しての賛成派と反対派。)
グループの中でも、農家や政治家、社長や主婦など様々な立場を作る。そこでグループ内で意見を交わして、アイデアAとBができる。今度はAとBで意見を言い合うようにする。
すると、たぶん自分のグループ内でもいろんな立場があることに気づかされる。一つの賛成や反対がいろんな角度から出来上がっていることが分かる。
もちろん、自分とは逆の意見に対しても、この部分は理解できるなとか、こういう考え方があるんだなというのを発見する。

これがまさに対話プロセスにおいて重要なことなのだと思う。

つまり、様々な立場の考えを理解するということ。これが対話においての重要な意義なのではないかなと思う。自分の意見以外を受け入れるということは、一見簡単そうに見えるが現実世界をみるとそれはもう言いたい放題言っていて、攻撃の対象になる人がかわいそうになる。

ここまでは地層処分事業を例に対話からの理解の話をしたが、その先にあるのが共感の世界ではないかと思う。
最近は共感をテーマとした本がことあるごとに出ているのだが、それはお金や権威といったものを目的とするような世界に警鐘しているようにも思える。

共感とは一言でいうと他人と同じ感情をもつことをいう。

定義は意外にもはっきりとしているようで、他人がどのような感情を抱いているかを観察して、想像し、体験することが共感のプロセスであるようだ。ある人とともに悲しむためには、自分もその人と同じような悲しい体験をしていることが必要ともいえる。

そうなるとたしかに共感というのは現代において非常に難題であるように思う。とにかく物事をずばずばと分断していくのが資本主義的な社会の特徴だからだ。

例えば、今見ている手持ちのタブレットやPCがどうやって作られているのか、どこのメーカーなのか、それは何の材料でできているのか、その材料の原産地は何なのか、そこにどんな人が関わっているのか。
あまりに多様で複雑化した社会には、ものごとの深いところを見るのが難しい。

さらにいえば、マンションの隣の部屋に住んでいる人の顔が思い浮かべられない。同じ会社の違う部署の人が何をしているかが分からないなんてことが起きてしまう。

こんな状況にグローバル化で、多国籍や多文化の社会が入り込むのだから戸惑うことは致し方ない。

でも、たしかにそのような分断が生み出した社会に亀裂が生じているのは間違いない。それは住む場所という単位でのコミュニティを崩壊させた。サークルとか、趣味範囲で気の合う仲間とつるむようになったが、つながりやすい分もろい。

田舎にいくと、その地域のルールみたいなものが存在していたりして、隣の家に野菜をお裾分けとかそういう文化は根強く残っている。そういう喧騒から逃れたくて都会に行くのだが、自由の分だけ孤独がつきまとう。

共感社会というのは、そういう世界に一石を投じるようなものなんだと思う。
例えば、東北の震災のときに、多くの人が悲しみを共有し、自分たちにできることを小さくてもいいからやろうと動いた。そこには、金銭的なメリットとかボランティア活動が就活に役立つとかそういうものじゃなくて、もっと本能的な善意のようなもので社会が動いていたように思う。

COVID-19が起こした社会的なインパクトは大きいが、その分社会が変化するチャンスだとも思う。

ツールとしての対話、そこから生まれる理解。その先の共感社会へと、自分自身もその可能性をいろいろと探っていきたい。

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