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カレーを食べて、ちょっと思い出したこと

思い出に一番直結する五感は、嗅覚だというのは有名な話。それは、嗅覚だけが記憶をつかさどる脳の海馬に、直接的に信号を送ることができるからだそうだ。海馬は記憶の保管庫で、匂いを察知すると瞬時にその情報を記憶の中から検索し、その時に感じた喜怒哀楽の感情までも同時に呼び起こすという。
この能力は、長らく食物連鎖の上位ではなかった人間が、生きるために備えた危機察知能力の一つとして考えられている。暗闇の中でも危険な獣の匂いを感じた際、すぐに臨戦態勢を取れる様に、とういことらしい。
「プルースト効果」とも呼ばれている。フランス人作家マルセル・プルーストの小説『失われた時を求めて』の中で、マドレーヌと紅茶の香りを嗅いだ主人公が、過去を思い出し、そこから回想シーンに入ることから名付けられた。

今回、僕が体験した強烈な「プルースト効果」の対象物は、カレーだ。約20年前に止まっていたその記憶が、鮮烈に蘇る。そこから、僕は一気に幼少の頃の、ささやかながらも幸せな、どこにでもある一家の外食風景を思い出した。匂いの記憶が連鎖を呼び、その旅は、洋食屋から寿司屋に移っていく。寿司屋の酢飯の匂いが思い出され、魚の切り身の入ったショーケースの前で、座り心地の悪い足の長いカウンター椅子に座った幼少期の僕自身と出会うことができた。

カレーを食べて泣く日が来るとは。46歳にして、初体験だ。

これから書くことは、別に大したことじゃない。カレーを食べた中年の男が、過去をちょっと思い出しただけ、それだけの話。

富士山麓の町、静岡県富士宮市。その中でもほぼ最北に位置し、景観の美しさで有名な、白糸の滝の近くにその店はあった。洋食屋「クロンボ」と言う。洋食屋、と言うより僕にとってはカレー屋さんだった。
クロンボは、黒人の差別用語とされ、今ではあまり使われることがなくなった単語だ。しかし今でも、高円寺や静岡市内などに、同名の洋食屋が存在するらしい。白糸にあった「クロンボ」と源流は同じと聞いたことがあるが、詳しくはわからない。
白糸は、僕の生まれ育った場所だ。これ以上ない大きな富士山を東に仰ぎ、西には山々が連なる。標高は500メートルを超え、市街地まで車で30分ほどかかる片田舎だ。

店の駐車場には「カレーは1分」と書かれた看板が出ていた。物心着いた時には、すでにそのお店は当然の様にそこにあった。おばちゃんが1人で切り盛りしていた。
カレー、スペシャルカレー(辛口)、しょうが焼き、にんにく焼き、オムライス…。子供が好きそうなメニューばかりだった。

両親が共働きだったこともあり、家族でよく外食をした。週末だけでなく平日も、仕事から帰った両親が晩飯の支度が面倒な時など、近くの食堂に行くのが常だった。その時になると、僕はよくクロンボをリクエストした。何度かに一度はそのリクエストが通り、僕はよくカツカレーを食べていた。

近くの寿司屋に行った時のことだ。
当時、卵とかんぴょうくらいしか食べられなかった僕は、カウンターで「クロンボのカレーが食べたかった」と駄々をこねた。両親は優しく僕をなだめたが、寿司屋の大将が、クロンボのカレーの出前を取ってくれたのだ。僕ら家族の他に、お客さんがいなかったからだと思う。
人生で一度だけだ。寿司屋のカウンターでカレーを食べたのは。
今考えると、寿司屋の大将に申し訳ない気持ちでいっぱいになるが、当時、夏でもひんやりとした寿司屋の店内で、僕はアツアツのカレーを頬張り、幸せだった。

初めて辛口のスペシャルカツカレーに切り替えたのは、多分小学校4年生頃だったと思う。いつもとは違う辛さの刺激に、顔中が熱くなったのをはっきりと覚えている。完食した瞬間、おばちゃんからも「全部食べられたんだ?すごいね。辛くなかった?」と言われ、自分が大人になったと感じた。いつもより多くセルフのサーバーからの水をがぶ飲みし、スポーツ後の様な爽快感を得ることができた。翌日、学校でスペシャルを完食したことを、得意げに友人に話したことを覚えている。
この店のカレーの特徴は、何と言ってもよく効いたスパイスの香りと、水分のほとんどないドロドロさにある。香りと辛さが幾重にも重なって、奥行きが生まれる。地元のブランド豚「ヨーグル豚(とん)」のカツが大きく乗るスペシャルカツカレーは、たぶん、僕が人生で一番多く食べたカレーだ。

中学や高校に上がると、両親とではなく、友人たちとよく行く店に変わった。大学に進学し白糸を離れても、帰省の度にクロンボに寄った。
卒業後、富士宮で就職してからも、平日休日問わず、本当によくクロンボに通ったと思う。行けば、必ず誰か知った顔があった。先輩、後輩、誰々のおやじさん、担任の教師や保健室の先生、そして、同級生。
そんな地元民にも愛され続けた店だった。

火事で焼けてしまい、閉店してしまうまで。

僕が、20代中頃のことだった。本当にあっけなく、クロンボはなくなってしまったのだ。
あれから、20年近く経つ。その間に、僕は家でも外食でも多くのカレーを食べたが、クロンボのカレーに似たカレーには出会ったことがない。

小中学校時代の同級生から、その情報が送られて来たのは、先週の話だ。その日から、僕の頭の中は、ずっとカレーに支配され続けていた。
クロンボのおばちゃんの息子さんが、今月(2023年12月)から洋食屋を始めたと言うのだ。その息子さん、僕がまだ小学生だった頃に、一時期クロンボで実際に働いていたこともある。当時のメニューを再現しているとのこと。
また、あのカレーが食べられるのか。

クリスマスが近いと言うことで、両親と会食する機会があり、富士宮に帰省した。妹や甥っ子も交えたランチを終え、再び神奈川に帰る前に、寄りたい店があることを家族に伝えた。その店のカレーをテイクアウトし、今夜の晩御飯にしようと。

新しくできたその店は、白糸ではなく、僕が通った市内の高校の近くにあった。
「洋食屋キッチンいしかわ」
家族を車に残し、1人で店に向かう。駐車場から店まで30メートルほどの道を歩いていると、一瞬にしてタイムスリップした様な感覚に襲われた。今が何年で自分が何歳で、今日が何曜日なのかもわからなくなった。
原因は、店から漂うスパイスの香りだ。クロンボの香りだ。

扉を開けると、そのスパイスの香りの波が一気に僕を飲み込む。その迫力に負けないように、僕はゆっくりと足を前に出した。
「いらっしゃい」
店主を見ると、マスクをしているが、その顔に見覚えがあった。太い声も聞き覚えがあり、ああ、間違いなく当時クロンボで働いていた息子さんだ、と思い出した。

店内は、こぢんまりしている。カウンター席が6席と、奥に4人掛けのテーブル席がひとつ。お客さんが、2名いた。

食事メニュー
飲み物メニュー

メニューはほとんど変わっていない。20年前に比べて、約1割から2割程度上の値段設定か。

僕は、家族の分も含めてテイクアウトでオーダーした。15分程度調理にかかるそうなので、僕は一度、車に戻ることにした。

車を開け、運転席に乗り込む。
妻、子供たちが一斉に「えー、すごい臭い。カレー?」と口々に言った。
ほんの数分、店内にいただけで、あの強烈なスパイス臭が衣類に染み込んでしまった様だ。
そう言えば、昔、クロンボで食事を済ませて帰宅すると、母に「クロンボで食べて来たの?」とこちらが何も言わなくてもよくバレた。あの頃と変わらぬ周りの反応に、僕は嬉しくなった。


神奈川の家に無事帰宅した後、大袈裟ではなく、少しだけ神妙な面持ちで、僕はテイクアウトした料理を温めたり皿に移したりした。誰かの形見や、贈り物、そういった圧倒的な思い出が詰まった大切なものを扱う様に、そう表現すれば伝わるだろうか。僕にとって、クロンボの味は、それと同義だ。

カレーの気分じゃない時に、よくオーダーしたメニューがしょうが焼きだ。しょうが焼きといっても、ごく普通の家庭で作る醤油味の定番のあれではなく、洋食屋のしょうが焼きだ。独特の香りを帯びたソースが、しょうがの爽やかな風味と相まって、肉だけでなく、同じ皿に添えられたキャベツまで浸す。端に添えられたギトギト系のナポリタンにまで絡む。当然の如く、ライスがよく進んだ。
カレー→スペシャルカレーと段階的な順番がある様に、成長につれて、しょうが焼き→にんにく焼きへと階段を登る。しょうか焼きと同じソースをベースにしながら、にんにくの香ばしさがさらに食欲を掻き立てる。
子供時代に、クロンボでしょうが焼きを食べていた時、後から家族と一緒に入って来た同級生が、にんにく焼きをオーダーした。訳のわからぬ敗北感に包まれたことを覚えている。
な、にんにく焼き?なにそれ。食べたことない。大人じゃん!
その同級生が急に先を行く存在に感じられた。

にんにく焼き

今夜、そのにんにく焼きを、僕はビールと一緒に食す。変わっていない。
少しだけしょっぱすぎる味付けまで一緒だ。僕は黙ってビールで流し込む。
美味いさ、そりゃ。

スペシャルカツカレー

今回、小5の娘だけ、スペシャルではないカレーにした。彼女は極端に辛いものが苦手だからだ。
中2の息子と妻はスペシャルだ。
黙って彼らの反応を見る。
「何これ、美味い!」
「普通のカレーと違う」
「え、なんだろ?やっぱり香りが違う」
妻も「これは記憶に残る味だね。ずっと食べたかった理由がわかる気がする」と絶賛していた。
3人とも、ペロリと完食した。

僕も食べてみる。
食べた瞬間からスパイスの爆弾が口の中で弾ける。適度な辛さとスパイスのせいで、全身の毛穴が開く。開いた毛穴からも、あたりに漂うスパイスの香りを体内に取り込む。
これは、儀式だ。そう思った。
もしかしたら、微妙なレシピや食材の変更はあるのかも知れない。でも、何も変わっていないと信じさせるだけのパワーが、このカレーには宿っている。思春期の淡い初恋の相手と再開して、当然お互い歳を取ったのに「変わらないね」などと言い合うあの感じとは別物だ。当時と何も変わらず、白髪一本しわ一本ない状態で、突然目の前にあの日のあの子が現れた、そんな衝撃。
変わらぬものは罪だ。僕は大粒の涙を流しながら、カレーを貪り食べた。妻も子供たちも笑っていたが、次から次へと押し寄せてくる思い出によって、僕は自分の人生がいかに幸せだったかを知った。
ここまでつらつらと書き殴った記憶には、幸せしか存在しないことに気づいて、また泣いた。

カレーを食べただけで泣くことのできる人生なんて、最高じゃないか!
全てに、感謝。ありがとう。

帰省する楽しみが、ひとつ、増えた。

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