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Sweet Revenge

僕が初めて、BARの扉を開いたのは、お酒が飲める様になってすぐの秋だった。群馬県高崎市問屋町。
当時アルバイトをしていたカラオケスナックの給料が、少しだけ多く出た月に、思い切ってその扉を押した。その店は、僕が大学進学の時から一人暮らしを始めたワンルームマンションの一階にあった。店名は「BAR JEREZ」(シェレス)
店内は薄暗く、香の香りに満ち、蝋燭の炎が優しくゆらめき、深い影を作っていた。BAR、もちろん入るのは初めてだ。
いらっしゃいませ、低い声が店内に響く。マスターに導かれる席に腰を下ろした。店内はカウンター席のみ。全部で10席程度だろうか。そのうち半分近くの席が埋まっていた。ネクタイを緩めたサラリーマン風の男性や、大学の同級生にはいそうもない、オトナな女性たち。
マスターは、おしぼりを手渡しながら「好みを仰って頂けましたら、その通りお作りいたします」と笑顔で話してくれた。店内には、聞いたこともない宗教音楽が流れている。
僕はアルバイト先で、簡単なカクテルを作っていた。今回、初めてBARに来てみたのは、BARで出される、本物のカクテルを飲んでみたかったからに他ならない。僕の作るものと、何がどう違うのか。
「おすすめのカクテルをお願いします」僕がそうオーダーすると、マスターからいつくか質問をされた。甘い方がいいか、さっぱりしている方がいいか。アルコールは強くても平気か。炭酸は好きか。確か、そんな質問だったと思う。
出てきたカクテルは、「ギムレット」だった。ジンと、ライムジュース、砂糖で作る。使われていたジンは、ニコルソン。辛口のジンだ。
カッ…カッ、カッカッカッカッカカカカカ。店内にシェークの音が気持ちよく響く。僕は、マスターの所作の美しさに見とれていた。冷やされ、白く曇ったカクテルグラスに注がれる。最後の一滴まで。すり切り一杯。
おまたせいたしました。マスターの低い声。
こぼさぬ様に注意しながら、一口、飲んでみる。ライムの酸味と、僅かな甘み、度数の高いジンが、シェークによって驚くほど丸くなっている。人生初のBARで飲むカクテル。美味い!自分の作るものと、なぜこれほどまでの違いが生まれるのか!
僕はこの日以来、大学を卒業するまでの数年間、この店に通うことになった。そして、これだけははっきりと言える。僕は、「BAR JEREZ」で大人になった。

BAR JEREZのギムレットは、シュガーシロップの代わりに、ローズ社のコーディアル(甘口)ライムを少量加えていた

この店のマスターが、坂本龍一の大ファンだった。店を臨時休業にし、香港にまでコンサートに行くほどだった。まだ若く、20代の後半だったはずだ。僕は兄貴の様に慕い、毎週、この店を訪れた。僕以外に客がいない深夜、よく坂本龍一の曲を店内で流してくれた。
オリエントな空気を含み、ゆったりと店内を包み込む。その心地良さに、僕はいつも聞き惚れていた。自分で何枚かCDを買い、部屋でも車でも聞く様になった。
「BAR JEREZ」には、決まってバイトを終えた深夜に訪れた。すっかりBARの魅力に取り憑かれ、私自身も、カラオケスナックを辞め、駅前のホテルBARでアルバイトを始めた。
お酒の話を中心に、音楽の話、時には人生相談まで。閉店までよく飲んだ。大学生の特権だった。
「ギムレット」以外にも、私がこの店でよく飲んだもの。その中に坂本龍一に由来するカクテルが2種類ある。
一つ目が「M-30Rain」だ。坂本龍一のために、銀座の有名バーテンダーの1人である、上田和男が作ったオリジナルカクテルだ。

ウォッカベース、グレープフルーツのリキュールに、ライムジュースを加えて作る。「BAR JEREZ」のマスターは、ブルーキュラソーの分量を、2滴、とよく言っていた。それ以上加えると、土砂降りの雨になってしまうと。
このカクテルは、映画『ラストエンペラー』のサントラに収録されている曲をイメージして作られた。実際、映画の中では、サッとしたにわか雨のシーンで使われている。曲の持つ湿度が、苦味のあるリキュールで表現されている。私は毎回このカクテルをオーダーし、『Rain』をリクエストした。

そして、もう一つのカクテル名が「Sweet Revenge」だ。
こちらは、完全に、「BAR JEREZ」マスターのオリジナルカクテル。名前は、やはり坂本龍一の曲名から。
この曲は、ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『リトル・ブッダ』のために書かれた曲。最初に書いた曲に対し、監督が「もっと悲しい曲を」と坂本にリクエスト。次に書いた曲に対し「これでは救いがない。悲しすぎる」と再度書き直しを依頼され、坂本はさすがに怒りを露わにしたエピソードが残る。そのボツになった曲を『Sweet Revenge』という曲名でリリースした。リベンジは、監督に対して向けられた言葉だ。
今から四半世紀も前の記憶のはずなのに、嬉しそうにその話をするマスターの笑顔が忘れられない。レシピは、次の通り。
ズブロッカ 40cc
パルフェタムール 10cc
レモンジュース 10cc
シェイクして、カクテルグラスに注ぐ。
ズブロッカは、ポーランドの香り付きのウォッカで、どこか、桜の花の香りを思わせる。パルフェタムールは、すみれの花の香り。それをレモンの甘酸っぱさと混ぜることで、どこか切ない情景を感じることができる。極薄い、紫色から、Revengeの意味を想像することができる。

残念ながら、「BAR JEREZ」はもうない。僕が大学を卒業する頃に、閉店してしまった。僕自身も、卒業後は、普通のサラリーマンだ。
しかし、僕はあれからも、ほぼ毎晩、カクテルを作り続けている。自分のため。友人のため。妻のため。そして、今でもよく「Sweet Revenge」を作る。オリジナルのレシピより、ほんの少しパルフェタムールの比率を落として。今となっては、僕しか作ることのできないカクテルだ。
坂本龍一が亡くなってから、ずっと彼の音楽を聴き続けている。そしてもちろん、「M-30Rain」と「Sweet Revenge」を飲んでいる。
ふたつとも、いいカクテルだ。
坂本を偲ぶのに、これ以上のカクテルを、僕は知らない。

あらためて坂本龍一を聞くと、あの店で、ほんの少し背伸びした自分と、出会うことができる。つまり、僕の青春の音楽だ。

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