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人生とは、「断続的な、意味を見出す行為」の総称である。

こんばんは。
今週も早いもので金曜日。

金曜日の夜にだけ、僕は僕の思いを吐き出すこのnoteを、
無造作に書き殴る。

どうか、杏仁豆腐でも飲みながら読んでほしい。

どうせ大したことは書いていないのだから。


今週の話

まずは僕の1週間を振り返る。

今週は少し嫌なことがあったが、何とか取り戻した。
あとはひたすらに創作に明け暮れた1週間。

創作、創作。気まぐれに仕事。

そんな1週間だ。


人生とはなんぞや。

中学生のころだったか。
高校生のころだったか。

「〇〇とはなんぞや」

という口癖の先生がいたことを不意に思い出したので、
ありがたく使わせていただく。


僕は、いつも考える。

人生とは、なんぞや。
と。

生きることに意味を見出そうとするのは、
おそらくだけど人間という生物の特権であり、
弱点でもある。

せっかくだから、
特権として味わっておこう、と僕は思う。

地球に存在する生命のトップに君臨しているわけだし。


「人生は選択の連続である」

こんな名言がある。
シェイクスピアの言葉だ。

これは、もうなんていうか。
素敵な切り口の言葉だと僕は思っている。
シェイクスピアの時代は今から500年ぐらい前。

日本で言えば本能寺の変だとか何だとかで、
血みどろの戦いが繰り返されていた時代。


そんな時代に。

「人生は選択の連続である」


こんなことを言われちゃあ、シビれるしかない。
当時僕が存在していたら、子鹿みたいに震えて泣いただろう。
「あいつやべーよ」みたいになる。
グラサンかけてボイパやってた人が億万長者になるぐらいやばい。


人生とは

冗談はさておき。
人生ってのは選択の連続だ。

じゃあそれって、結局何が言いたいん?
と僕は思った。

選択するから何なの?
連続だから何なの?
ってことだ。


シェイクスピアは

人生って色々選択しなきゃだし、
選択してもまたすぐ次のヤツが来るし、
ていうか何なら朝食から何から全部選択してるワケじゃん?
超大変。でも超頑張れ。負けんな。

みたいなことが言いたかったに違いない。多分。


でね。
僕はさらに思った。

人生の選択って、多分ね。
ど真ん中じゃないって。


人生は、意味を見出すことだ。

人生において大切なことは、

その時その瞬間、
自分がどこに立っていて、
何を感じているか?

じゃないかな、と思っている。

人生には選択とか、
分岐点と呼ばれるものがいくつもあるが、
それって大した問題じゃない。





いつだって、
自分の世界の中心は、自分じゃないか。



そう思うんだよね。
仮に理不尽な目にあって、
自分の意思とはそぐわない現状にいたとしても。

それは客観的に見ることなんてできなくて、

「あぁ、かわいそう、自分」

みたいに思うしかない。

一部の精神疾患は除いて、
自分っていう感覚は
心から離れてどっかに飛んでいったりはしない。


人生に選択や分岐があったとしても、
それは電車の窓から見えるレールみたいなもので、

自分という存在に向かってきて、
自分という存在から遠ざかっていくだけ。

主たる自分の視点っていうのは、
いつもそこにあって。

僕らはその時その時に、

「あれ、これで良かったんだっけ」とか。
「あちゃー、失敗した」とか。
「やっぱこっちで正解だったな」とか。

自分で考えたり、解釈したりするしかない。


そう。
それの連続。
そんなことの繰り返しが、
きっと人生というやつなのだと僕は考えてる。


大事なのは、そこでどう考えるかだ。

選択や分岐はただの事象であって、
本当に人生のど真ん中にあるのは、

いまの自分って何者?
どんなことしてるの?
それでいいの?
納得してるの?

みたいなことを味わって、
そんで次はなにをすべきかを考えること。

じゃないかな、って思う。

僕自身、以前大きな人生の選択をしたけれど。
悩みに悩んで選んだことが今は心底どうでもいい。

時間は絶対に戻らない。

人生の選択の正解はきっと死ぬ間際までわからないし、
仮にわかったところで何かが変わるわけでもない。



おわりに

人生訓みたいなものはいくらでもあるんですけどね。
僕が30何年で得た薄っぺらい人生感はこんな感じ。

今日も、明日も。
自分という存在であることは決して変わらない。

どうやって生きるか。

せっかくなら、未来の自分に褒めてもらえるように
生きていきたいものです。


今日も、読んでくれてありがとう。

よしなに。



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